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矢崎曠さん(2) [エートマン・モードの人物館]

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 ふ~ん、そういうお方だったんだぁ・・・。

 と、おとぼけ気味にごまかしてはいけませんね。
実は、台座の背面にはこのような
文字が浮き出るように鋳造した銅板プレートが付けられていたのですが、
こうしたものを写真にするととても画像データが重くなります。
いつもこのブログに使用している一枚当たりのデータ容量に納めたところ
まったくよく理解できない写真になってしまいました。

120128yazakihiroshi04b.jpg

 そこで、あらためて初めの方だけ読めるようにしてみました。
画像サイズは、前者が20,959バイトに対しこちらは31,306バイト。大きいですね。

 そうそう、肝心な書かれている内容ですが、書き起こすと次のようになります。
なお、原文は縦書きですが、横書きにかえ、数字も算用数字にし、
旧漢字は現行のものにして、句読点もつけています。

     矢 崎 曠 翁 略 歴   明治40年4月1日、山梨県諏訪村に生る。幼にして行余   義塾に学び郷に在りて青雲の志を涵ふ。日露戦役に従軍   後樺太境界画定委員となり大任を果たす。大正2年、日本聯   合電灯支配人として実業界に入り、故櫻内幸雄翁の知遇   を得てその才腕を認められ、大正14年、琴川電力を起し、今   日の事業的基礎を樹立す。一方、東京商工会議所議員たる   こと前後14年。東都各方面の事業界に活躍。就中、精魂を傾   けて昭和10年、全国に魁け、桑皮を原料とする扶桑紙業を   創立し、成果大にあがる。昭和14年、琴川電力を母体とし日   下部町に製鉄事業を始め、社名を日本電化工業と改む。次   で、日下部バルブ社長を兼ね、第二次大戦後、居を此所に定   む。県下屈指の実業家として、よく後進の指導に当たり、また県   内産業の開発、科学振興の第一線に立ち、その資性を顕わす。   老来益々旺んにしてここに喜寿を迎ふ。 昭和29年春、誌す。

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 矢崎曠さんの胸像の背面を見てみました。
背中の左下に「昭和廿九年四月 / 周三郎作」と製作年月と作者名が刻されていました。
製作時期は、台座の略歴と同じ時期になっていました。

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 台座の左側面には、矢崎曠さんの寿像の建立に関しての世話人さん達のお名前がありました。
河西豊太郎さんを筆頭として年齢順に11名のお名前が連なり、
4人目に天野久さん、お終いに櫻内義雄さんのお名前もありました。
櫻内義雄(明治45=1912~平成15=2003)さん、ご存知ですよね。
矢崎曠さんの略歴の中に出てくる櫻内幸雄さんのご子息という関係、
矢崎曠さんを理解する上でキーマンとなる方のようです。

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 矢崎曠さん、今回初めて、その人となりに接することができたのです。  

 
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