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神山村分会の忠魂碑・あとがき [忠魂碑の類]

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 この4月の終わりに投稿した「神山村分会の忠魂碑」について、読者の方から
コメントを頂戴していたのですが、システムの変更に気付かずに大幅に時間が経過し、
季節も秋になってしまいましたが、追記をさせていただきます。

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 最初の投稿時に、この忠魂碑の文字の書き手のお名前がよくわからないとして
いつもながら適当にすませていたのですが、4thBPさんから「河内信彦」である旨の ご指摘をいただきました
4thBPさん、遅ればせながら感謝し、この間の非礼をお詫び申し上げます。

 前々回から前回にかけてみた清哲村分会による忠魂碑(復刻版)を見学した後の帰り道、
再度、神山村分会のそれを再確認してきました。
河内信彦の「内」の文字の彫りが、なめらかではなかったのと、泥蜂の巣がかけられたか何かの
汚損の痕によって読みにくくなっていたものの、ご指摘のとおり、「内」であることを
わが目で確認することができました。

 さて、字がわかったところで、河内信彦さんについて、若干のメモを残しておきます。

 河内信彦さんは、慶応2(1866)年7月に今の山口県で生まれ、長じて陸軍士官学校で学んだ後、
明治21年、陸軍歩兵少尉として任官。後、明治45年3月5日に陸軍歩兵大佐となり、
同日、歩兵第49連隊の連隊長となっています。
 この49連隊が山梨との接点ですね。大佐で忠魂碑の書き手になるのは珍しいこと、
何か背景があるのだろうと考えていたことの答えがこれだと考えられるようになりました。
49連隊には、4年ほどおられ、その後、大正10年の陸軍中将となり、正4位に叙せられています。
昭和19(1944)年に10月に79歳で亡くなられました。
 この碑の揮毫をしたためた大正4(1915)年は、49連隊長から、少将に昇進して
陸軍歩兵第25旅団長に転身する大正5年の前年のことでありました。

 なお、この記事中の河内信彦さんの経歴等は、ウィキペディアの「歩兵第49連隊」の項ほか
あのひと検索 スパイシー」の中に現れた情報をもとにしていることを付記します。

 なおなお、この記事に使用した写真は、2013年4月29日の記事に使用したものの再掲です。
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