雨の日には・・・ [エートマンの日記]
梅雨空の一日となりました。そんな中、釈迦堂遺跡博物館にいってきました。
お目当ては、現在の開催中の企画展『地下からのメッセージ』でした。
これは、サブタイトルがあって、「中世 武田氏の史跡」とされていました。
内容は、いま某放送局が放映する“大河ドラマ-風林火山”の流れを受け、
釈迦堂遺跡周辺に展開する武田氏の歴史につながる寺院や遺跡などの紹介と
さらに、こちらが話題の中心なのですが、甲州市大和町の景徳院境内にある
県指定史跡「武田勝頼の墓」の保存修理中に出土した“勝頼の供養のための経石”
について、出土の経緯や概要が展示されていたのです。
ほかの県内の経石が出土した事例などもあわせて紹介されていて、
ずいぶんと楽しむことができました。
ちなみに、この企画展は7月30日までの会期で、火曜日が休館となっているようです。
ぜひ、皆さまもこの機会に、普段接することができない、“生の”武田の歴史に
ふれてみてください。お勧めします。
いってみたいなという方は、次の釈迦堂遺跡博物館のホームページで
ご確認の上、お出かけされてみてはいかがでしょうか。
http://www.eps4.comlink.ne.jp/%7Eshakado/
企画展をひとしきり楽しんだ後のお楽しみは、こちらです。
企画展示室の脇にある喫茶コーナーで、“桃”または“巨峰”のサイダーを
提供してくれていました。
1つ300円。どちらか迷いましたが、巨峰サイダーを選択。
雨の日を楽しくさせてくれるサイダーでした。
巨峰サイダーで、ウルウルした後は、2階に上がって常設展。
ここの博物館の目玉は、なんといっても5599点ひとまとめに重要文化財となった
釈迦堂遺跡からの出土品で、縄文文化のスケールが、ど、ど、どって
伝わってきます。
居合わせたほかのお客さんも、
「えー、これがみんな重要文化財なの・・・すごいねぇ」と・・・。
展示室のようすは、写真で紹介できませんので、
展示室を出た展望台からの眺めをご覧にいれましょうか。
でも、そのころいちだんと雨が強くなり、
展望台のガラス窓にも、雨粒がこんなに・・・。
またもや ♪雨が降ってる日曜日・・・♪ となりましたが、
雨には、雨の日の楽しみがある、ということで大満足な時間が過ごせました。
雨の日には・・・ [エートマンの日記]
梅雨空の一日となりました。そんな中、釈迦堂遺跡博物館にいってきました。
お目当ては、現在の開催中の企画展『地下からのメッセージ』でした。
これは、サブタイトルがあって、「中世 武田氏の史跡」とされていました。
内容は、いま某放送局が放映する“大河ドラマ-風林火山”の流れを受け、
釈迦堂遺跡周辺に展開する武田氏の歴史につながる寺院や遺跡などの紹介と
さらに、こちらが話題の中心なのですが、甲州市大和町の景徳院境内にある
県指定史跡「武田勝頼の墓」の保存修理中に出土した“勝頼の供養のための経石”
について、出土の経緯や概要が展示されていたのです。
ほかの県内の経石が出土した事例などもあわせて紹介されていて、
ずいぶんと楽しむことができました。
ちなみに、この企画展は7月30日までの会期で、火曜日が休館となっているようです。
ぜひ、皆さまもこの機会に、普段接することができない、“生の”武田の歴史に
ふれてみてください。お勧めします。
いってみたいなという方は、次の釈迦堂遺跡博物館のホームページで
ご確認の上、お出かけされてみてはいかがでしょうか。
http://www.eps4.comlink.ne.jp/%7Eshakado/
企画展をひとしきり楽しんだ後のお楽しみは、こちらです。
企画展示室の脇にある喫茶コーナーで、“桃”または“巨峰”のサイダーを
提供してくれていました。
1つ300円。どちらか迷いましたが、巨峰サイダーを選択。
雨の日を楽しくさせてくれるサイダーでした。
巨峰サイダーで、ウルウルした後は、2階に上がって常設展。
ここの博物館の目玉は、なんといっても5599点ひとまとめに重要文化財となった
釈迦堂遺跡からの出土品で、縄文文化のスケールが、ど、ど、どって
伝わってきます。
居合わせたほかのお客さんも、
「えー、これがみんな重要文化財なの・・・すごいねぇ」と・・・。
展示室のようすは、写真で紹介できませんので、
展示室を出た展望台からの眺めをご覧にいれましょうか。
でも、そのころいちだんと雨が強くなり、
展望台のガラス窓にも、雨粒がこんなに・・・。
またもや ♪雨が降ってる日曜日・・・♪ となりましたが、
雨には、雨の日の楽しみがある、ということで大満足な時間が過ごせました。
だめだめ通信070623 [エートマンの日記]
昨日は、更新不能におちいりました。だめでした。
ちょっと仕事が遅くなったのと、おつむが働かなくて・・・
本日は、朝6時集合で、地域の河川清掃がありました。
刈り払い機を担いで半日、のびきった堤防の草などを刈って回りました。
お昼にアワデル飲料をいただいたので、午後はそれで沈没。だめでした。
よって本日も更新不能です・・・という更新でした。まったくだめだね・・・。
(おまけ)昨日は夏至でした。でも梅雨の最中、申し訳程度の雨模様でした。
で、本日は、梅雨なんてウソでしょう・・・という感じの好天。
ずっと外にいて、顔が焼けてひりひりしてます。おつむも相変わらず不調・・・
なので、おやすみなさい・・・
(写真は、6/14の夜、帰宅時に雨が降りしきる・・・という資料画像です)
だめだめ通信070623 [エートマンの日記]
昨日は、更新不能におちいりました。だめでした。
ちょっと仕事が遅くなったのと、おつむが働かなくて・・・
本日は、朝6時集合で、地域の河川清掃がありました。
刈り払い機を担いで半日、のびきった堤防の草などを刈って回りました。
お昼にアワデル飲料をいただいたので、午後はそれで沈没。だめでした。
よって本日も更新不能です・・・という更新でした。まったくだめだね・・・。
(おまけ)昨日は夏至でした。でも梅雨の最中、申し訳程度の雨模様でした。
で、本日は、梅雨なんてウソでしょう・・・という感じの好天。
ずっと外にいて、顔が焼けてひりひりしてます。おつむも相変わらず不調・・・
なので、おやすみなさい・・・
(写真は、6/14の夜、帰宅時に雨が降りしきる・・・という資料画像です)
ここからスタート・・・ [橋と川の文化誌]
山中湖の西岸で、富士山がこんなふうに見える場所に、
そのスタート地点がありました。
スタートするのは、山中湖の水で、それが流れ出て相模川になる・・・、
このような場所からが始まりです。
その場所には、こんな案内板も・・・。
ただ、表示の文字列の終わりが、とれちゃってますねぇ・・・
そしてその下部には、相模川の説明プレートが付けられていました。
ふーん、東京電力の施設として大正15年に今の形になったようです。
(なんか、大正15年つながり・・・)
相模川の始まり始まり・・・
ずっと相模川と表記してきましたが、山梨県内にあっては、
桂川と呼称されます。
で、その川に平行する道路の標識にも、ほらね・・・
ここからスタート・・・ [橋と川の文化誌]
山中湖の西岸で、富士山がこんなふうに見える場所に、
そのスタート地点がありました。
スタートするのは、山中湖の水で、それが流れ出て相模川になる・・・、
このような場所からが始まりです。
その場所には、こんな案内板も・・・。
ただ、表示の文字列の終わりが、とれちゃってますねぇ・・・
そしてその下部には、相模川の説明プレートが付けられていました。
ふーん、東京電力の施設として大正15年に今の形になったようです。
(なんか、大正15年つながり・・・)
相模川の始まり始まり・・・
ずっと相模川と表記してきましたが、山梨県内にあっては、
桂川と呼称されます。
で、その川に平行する道路の標識にも、ほらね・・・
護国の塔 [忠魂碑の類]
今回も引き続き6月16日(土)取材の“山中湖放浪の記”シリーズです。
山中湖の北岸で、山中湖村山中から平野に入るかどうか位の場所です。
神社らしき場所を発見(というのもヘンかな)!
玉垣もあるし、鳥居もあるから、やはり神社でしょう・・・???
この鳥居は、ただものの鳥居ではない。
靖国鳥居ではないでしょうか。 ということは、護国神社???
なお、“靖国鳥居”とは、転びなく2本の丸柱を建て、
上部を断面が長方形の貫で繋ぎ、さらに笠木として丸材を渡す形式で、
白木を原則とするようです。
ここで見たものは、コンクリート造で、その表面を
白い細かな石を塗り込めて仕上げています。
鳥居をくぐるとそこには、拝殿や本殿といった神社に標準的な構えはなく、
かわりに「護國之塔」と題された塔が立っていました。
ネットなどで、[山中湖村 護国神社]といった検索をかけても、
山中湖村のその地に、神社の存在は確認できず、
まあ結論的には、ほとんど護国神社の機能を持った戦前起源の
国家神道の一翼をになった施設だと・・・いえましょうか。
境内(?)には、元帥・陸軍大将であった子爵の川村景明の揮毫になる
忠魂碑も建てられていました。
背面の銘文により、大正11年の建立であることが確認できました。
川村景明さんも、気になりますよね・・・。
彼は、嘉永3年(1850)に薩摩藩士の子に生まれ、長じて旧陸軍の軍人さんとなりました。
日清戦争の時に頭角を現し、日露戦争に際して陸軍大将、さらに元帥となります。
大正8年12月から在郷軍人会の会長に就任していますが、この会長さんになると
こうした全国的に建立された「忠魂碑」の揮毫をとることが多くなるようです。
で、川村さんですが、現職のまま大正15年4月に亡くなっています。
(川村さんについては、基本的にウィキペディアの受け売りです)
このまま終わると、たんなる“右翼”ですが、もう一観察、付け加えましょう。
この碑ですが、設置に当たった石工さんは、御殿場の方だということが
やはり背面の銘文から分かります。
で、何を言いたいかというと、これにより、当時の地域経済圏の広がりが
なんとなく理解できるではないでしょうか。
護国の塔 [忠魂碑の類]
今回も引き続き6月16日(土)取材の“山中湖放浪の記”シリーズです。
山中湖の北岸で、山中湖村山中から平野に入るかどうか位の場所です。
神社らしき場所を発見(というのもヘンかな)!
玉垣もあるし、鳥居もあるから、やはり神社でしょう・・・???
この鳥居は、ただものの鳥居ではない。
靖国鳥居ではないでしょうか。 ということは、護国神社???
なお、“靖国鳥居”とは、転びなく2本の丸柱を建て、
上部を断面が長方形の貫で繋ぎ、さらに笠木として丸材を渡す形式で、
白木を原則とするようです。
ここで見たものは、コンクリート造で、その表面を
白い細かな石を塗り込めて仕上げています。
鳥居をくぐるとそこには、拝殿や本殿といった神社に標準的な構えはなく、
かわりに「護國之塔」と題された塔が立っていました。
ネットなどで、[山中湖村 護国神社]といった検索をかけても、
山中湖村のその地に、神社の存在は確認できず、
まあ結論的には、ほとんど護国神社の機能を持った戦前起源の
国家神道の一翼をになった施設だと・・・いえましょうか。
境内(?)には、元帥・陸軍大将であった子爵の川村景明の揮毫になる
忠魂碑も建てられていました。
背面の銘文により、大正11年の建立であることが確認できました。
川村景明さんも、気になりますよね・・・。
彼は、嘉永3年(1850)に薩摩藩士の子に生まれ、長じて旧陸軍の軍人さんとなりました。
日清戦争の時に頭角を現し、日露戦争に際して陸軍大将、さらに元帥となります。
大正8年12月から在郷軍人会の会長に就任していますが、この会長さんになると
こうした全国的に建立された「忠魂碑」の揮毫をとることが多くなるようです。
で、川村さんですが、現職のまま大正15年4月に亡くなっています。
(川村さんについては、基本的にウィキペディアの受け売りです)
このまま終わると、たんなる“右翼”ですが、もう一観察、付け加えましょう。
この碑ですが、設置に当たった石工さんは、御殿場の方だということが
やはり背面の銘文から分かります。
で、何を言いたいかというと、これにより、当時の地域経済圏の広がりが
なんとなく理解できるではないでしょうか。
ひのようじん・・・ [消防防災の巻]
山中湖山中の湖畔で見た消防団詰所です。
消防車を格納している車庫のシャッター、
見ていて思わず、♪とじまりよーじん、ひのよーじん・・・ と、
あの歌が浮かんできました。
この消防団詰所は、公衆トイレも兼ね備えています。
トイレは、時計台の雰囲気ももち、さすが観光地の配慮・・・
トイレの後ろの塔は、濡れた消防のホースを干すためのタワーになっています。
(撮影: 2007.6.16)