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ある古墳のこと2 [忘れないように]

070609map.jpg

 石塚古墳の続きです。
この古墳は、本格的な発掘調査は当時の状況として困難とされたようで、
数日間の簡易な状況把握がされ、そのレポートは、
1972年に刊行された『蝙蝠塚第一号墳の発掘』という文献に所収されているほか、
1975年発刊の『八代町誌』(上)のp.415~420に再録されています。

 といっても、正確な位置は特定しがたく、浅川から100mほど北の
浅川中学校校庭の造成敷地内だという程度なので、
そうした状況をメモ的にまとめると上のような古墳であったと思われます。
図示した円の大きさは、直径おそよ20mあまりですが、
これは報文中に、「南北13m」とあり、「周濠は考えられない」として
古墳の大きさを限定されていますが、墳丘の周囲に付属的な空間は
やはりあると思われるので、少なくとも直径20あまりの
こうした大きさと見るべきと思われます。

070609plan.jpg

 次に、石塚古墳は、横穴式石室が、予想以上によく残っていたということが指摘できます。
発見時の厳しい状況もあって、石室の入口部分が壊されてしまっているようですが、
残りの部分だけでも、奥行き10mはあったといいます。

 わずか1~2日ほどの石室調査であったようで、当然、完璧な記録図面の作成は
著しく困難であったとみられ、石室床面の記録には、「省略」とされた部分もありました。
石室基礎石の配置情報も残されていないので、推定で青い破線で加筆しました。
これにより、おそらく無袖式の横穴式石室のイメージがつかめるかと思います。

 残っていた石室内には、少なくとも2つの床面が、
約10cmの間層をおいて形成されていたようです。
上の面には、頭骨4を含む遺体が確認され、下の面にも人骨が多く見られたと報告されていて、
繰り返し埋葬があったことが考えられています。

070609objects.jpg

 この石塚古墳から出土した遺物ですが、土器や須恵器、
鉄製の直刀などが記録されています。
 このうち、薄い赤色でカバーした土器群は、平安時代の土器です。
石室内の上の層だけでなく、下の層からも見つかっているとされています。
 また薄いオレンジ色でカバーしたのが6世紀の終わりないし7世紀の
いわゆる古墳時代の土器です。

 こうした状況から、石塚古墳は、古墳時代後期の6世紀の終わり頃に
地域の勢力者の墓として営まれ、その人に関係した人の「追葬」も行われたようですが、
ずっと時代が下って平安時代になっても、埋葬行為などがあったという
地域の歴史を伝えるものだといえます。
 さらに、詳細なことをいうためには情報が不足していますが、
一度失われてしまった地中の文化財は、もうそれ以上の役割を期待してもダメなのですね。
 もっと地中の文化財を大切にしたい・・・
また、そうしたものから得られた情報を有効に利用できるようにしたい・・・
そんな想いを新たにしながら、平和な現在の光景の後ろに隠れた
はるかな歴史を考えてみました。

(この記事は、『八代町誌』1975 によっています)
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ある古墳のこと2 [忘れないように]

070609map.jpg

 石塚古墳の続きです。
この古墳は、本格的な発掘調査は当時の状況として困難とされたようで、
数日間の簡易な状況把握がされ、そのレポートは、
1972年に刊行された『蝙蝠塚第一号墳の発掘』という文献に所収されているほか、
1975年発刊の『八代町誌』(上)のp.415~420に再録されています。

 といっても、正確な位置は特定しがたく、浅川から100mほど北の
浅川中学校校庭の造成敷地内だという程度なので、
そうした状況をメモ的にまとめると上のような古墳であったと思われます。
図示した円の大きさは、直径おそよ20mあまりですが、
これは報文中に、「南北13m」とあり、「周濠は考えられない」として
古墳の大きさを限定されていますが、墳丘の周囲に付属的な空間は
やはりあると思われるので、少なくとも直径20あまりの
こうした大きさと見るべきと思われます。

070609plan.jpg

 次に、石塚古墳は、横穴式石室が、予想以上によく残っていたということが指摘できます。
発見時の厳しい状況もあって、石室の入口部分が壊されてしまっているようですが、
残りの部分だけでも、奥行き10mはあったといいます。

 わずか1~2日ほどの石室調査であったようで、当然、完璧な記録図面の作成は
著しく困難であったとみられ、石室床面の記録には、「省略」とされた部分もありました。
石室基礎石の配置情報も残されていないので、推定で青い破線で加筆しました。
これにより、おそらく無袖式の横穴式石室のイメージがつかめるかと思います。

 残っていた石室内には、少なくとも2つの床面が、
約10cmの間層をおいて形成されていたようです。
上の面には、頭骨4を含む遺体が確認され、下の面にも人骨が多く見られたと報告されていて、
繰り返し埋葬があったことが考えられています。

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 この石塚古墳から出土した遺物ですが、土器や須恵器、
鉄製の直刀などが記録されています。
 このうち、薄い赤色でカバーした土器群は、平安時代の土器です。
石室内の上の層だけでなく、下の層からも見つかっているとされています。
 また薄いオレンジ色でカバーしたのが6世紀の終わりないし7世紀の
いわゆる古墳時代の土器です。

 こうした状況から、石塚古墳は、古墳時代後期の6世紀の終わり頃に
地域の勢力者の墓として営まれ、その人に関係した人の「追葬」も行われたようですが、
ずっと時代が下って平安時代になっても、埋葬行為などがあったという
地域の歴史を伝えるものだといえます。
 さらに、詳細なことをいうためには情報が不足していますが、
一度失われてしまった地中の文化財は、もうそれ以上の役割を期待してもダメなのですね。
 もっと地中の文化財を大切にしたい・・・
また、そうしたものから得られた情報を有効に利用できるようにしたい・・・
そんな想いを新たにしながら、平和な現在の光景の後ろに隠れた
はるかな歴史を考えてみました。

(この記事は、『八代町誌』1975 によっています)
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