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護国の塔 [忠魂碑の類]

070616gokokunotou01.jpg

 今回も引き続き6月16日(土)取材の“山中湖放浪の記”シリーズです。
山中湖の北岸で、山中湖村山中から平野に入るかどうか位の場所です。
神社らしき場所を発見(というのもヘンかな)!

070616gokokunotou02.jpg

 玉垣もあるし、鳥居もあるから、やはり神社でしょう・・・???
この鳥居は、ただものの鳥居ではない。
靖国鳥居ではないでしょうか。 ということは、護国神社???

 なお、“靖国鳥居”とは、転びなく2本の丸柱を建て、
上部を断面が長方形の貫で繋ぎ、さらに笠木として丸材を渡す形式で、
白木を原則とするようです。
 ここで見たものは、コンクリート造で、その表面を
白い細かな石を塗り込めて仕上げています。

070616gokokunotou03.jpg

 鳥居をくぐるとそこには、拝殿や本殿といった神社に標準的な構えはなく、
かわりに「護國之塔」と題された塔が立っていました。
 ネットなどで、[山中湖村 護国神社]といった検索をかけても、
山中湖村のその地に、神社の存在は確認できず、
まあ結論的には、ほとんど護国神社の機能を持った戦前起源の
国家神道の一翼をになった施設だと・・・いえましょうか。

070616gokokunotou04chukonhi.jpg

 境内(?)には、元帥・陸軍大将であった子爵の川村景明の揮毫になる
忠魂碑も建てられていました。
背面の銘文により、大正11年の建立であることが確認できました。

 川村景明さんも、気になりますよね・・・。
彼は、嘉永3年(1850)に薩摩藩士の子に生まれ、長じて旧陸軍の軍人さんとなりました。
日清戦争の時に頭角を現し、日露戦争に際して陸軍大将、さらに元帥となります。
大正8年12月から在郷軍人会の会長に就任していますが、この会長さんになると
こうした全国的に建立された「忠魂碑」の揮毫をとることが多くなるようです。
で、川村さんですが、現職のまま大正15年4月に亡くなっています。
(川村さんについては、基本的にウィキペディアの受け売りです)

 このまま終わると、たんなる“右翼”ですが、もう一観察、付け加えましょう。

 この碑ですが、設置に当たった石工さんは、御殿場の方だということが
やはり背面の銘文から分かります。
で、何を言いたいかというと、これにより、当時の地域経済圏の広がりが
なんとなく理解できるではないでしょうか。
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護国の塔 [忠魂碑の類]

070616gokokunotou01.jpg

 今回も引き続き6月16日(土)取材の“山中湖放浪の記”シリーズです。
山中湖の北岸で、山中湖村山中から平野に入るかどうか位の場所です。
神社らしき場所を発見(というのもヘンかな)!

070616gokokunotou02.jpg

 玉垣もあるし、鳥居もあるから、やはり神社でしょう・・・???
この鳥居は、ただものの鳥居ではない。
靖国鳥居ではないでしょうか。 ということは、護国神社???

 なお、“靖国鳥居”とは、転びなく2本の丸柱を建て、
上部を断面が長方形の貫で繋ぎ、さらに笠木として丸材を渡す形式で、
白木を原則とするようです。
 ここで見たものは、コンクリート造で、その表面を
白い細かな石を塗り込めて仕上げています。

070616gokokunotou03.jpg

 鳥居をくぐるとそこには、拝殿や本殿といった神社に標準的な構えはなく、
かわりに「護國之塔」と題された塔が立っていました。
 ネットなどで、[山中湖村 護国神社]といった検索をかけても、
山中湖村のその地に、神社の存在は確認できず、
まあ結論的には、ほとんど護国神社の機能を持った戦前起源の
国家神道の一翼をになった施設だと・・・いえましょうか。

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 境内(?)には、元帥・陸軍大将であった子爵の川村景明の揮毫になる
忠魂碑も建てられていました。
背面の銘文により、大正11年の建立であることが確認できました。

 川村景明さんも、気になりますよね・・・。
彼は、嘉永3年(1850)に薩摩藩士の子に生まれ、長じて旧陸軍の軍人さんとなりました。
日清戦争の時に頭角を現し、日露戦争に際して陸軍大将、さらに元帥となります。
大正8年12月から在郷軍人会の会長に就任していますが、この会長さんになると
こうした全国的に建立された「忠魂碑」の揮毫をとることが多くなるようです。
で、川村さんですが、現職のまま大正15年4月に亡くなっています。
(川村さんについては、基本的にウィキペディアの受け売りです)

 このまま終わると、たんなる“右翼”ですが、もう一観察、付け加えましょう。

 この碑ですが、設置に当たった石工さんは、御殿場の方だということが
やはり背面の銘文から分かります。
で、何を言いたいかというと、これにより、当時の地域経済圏の広がりが
なんとなく理解できるではないでしょうか。
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