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将軍の石灯籠 再び・・・ [エートマンの日記]

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 8月のお盆がきました。今回は、ちょっぴりとそれにふさわしいお話です。
先日(8/12)に、笛吹市一宮町末木にある慈眼寺さんをたずねました。
目的は、文化財を紹介するデータとして、お寺さんの外観写真を
撮らせていただくためでした。

 写真の左側の建物が、ご本堂、右手の茅葺き屋根が庫裏で、
このほか本堂前の鐘楼門もあわせ、すべて重要文化財の建造物です。
なので、こんな感じで、何カットかパチパチとさせていただきました。

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 慈眼寺の貴重な建造物もさることながら、興味は、次に本堂前の
一対のいかめしい石灯籠に集まりました。
後で、この形の石灯籠の問題にお詳しい伊藤友己さんのお仕事により
次のように確認できました。

 ご本堂に向かって右手は、氏の一連の調査による通し番号では507番で、
正徳2年(1712)に上野国沼田藩主本多遠江守正武が、文昭院さまの御霊前に、
向かって左手のものは、同じく508番で、
正徳6年に但馬国出石藩主の仙石越前守政明が、有章院さまの御霊前に、
それぞれ献灯された、戦前までは東京芝の増上寺境内にあったもの
だということであります。

 あっ、文昭院は徳川6代将軍家宣に、有章院は次の7代将軍家継に
贈られた院号ですね。

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 こうした将軍さまに奉献された石灯籠のことは、
6月2日の「九代将軍の・・・」ということで、ふれていますが
大まかな位置づけについては、そちらも参照してみてください。

 ここで、少しだけ注目したいことがあります。
6月の記事の笛吹市八代町岡の善国寺の場合の石灯籠は、
一通り揃ったよう見られる形で移築奉納されていますが、
ここ、慈眼寺さんの場合は、火袋がちょっと・・・です。

 実は、2基とも、1つの竿を半分に切って、切り口面を上にして、
火袋の代わりとしているのです。
 火袋は、灯籠して、灯りが点される部分で、中がくりぬかれているので、
構造的に弱く、壊れやすいのです。このため、複雑な移動経路の中で、
多くの火袋はこわれて使い物にならなくなったものも数多かったと見られ、
こうした現象が、起きているのだと考えられます。
 半分に切断した竿の部材の中はくりぬいてはなく、正面に四角、
右側に日輪、左側に月輪を掘り出しているだけなのです。
当然、本来の火袋の、言い換えれば灯籠としての役割は
なさないのではないかと思われますが、信仰を表す形としての問題であり、
そんなことは、現代においては無用なのでしょう。

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 竿(さお)とか、火袋(ひぶくろ)とか、石灯籠の部分名称については、
この写真でご確認ください。

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 笠には、例の“丸に三つ葉葵”紋が、
「この紋所が、目に入らぬか」的に、印刻されているのですが、
注意しないとそのままいってしまいそうな歴史の流れと、
誰が決めたともない深い因縁が感じられました。
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