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約50時間の休止を終えて・・・ [エートマンのウェブメモ]

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 とてもとても長く感じましたが、この朝早く、システム・メンテが
無事終了したようです。
いろいろなところに改良が加えられたようです。
基本的な部分は、変わらないですが・・・。
追々また、エート・マン・ワールドを展開して参ります。
引き続きよろしくお願いいたします。

入幕の記念(?)碑 [地域の小さな歴史]

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 前回、藤田八幡神社の境内での忠魂碑を取り上げましたが、
その隣に、ずっと小さな石碑が建っていました。
目をやると、「清正公」という文字があり、とても惹かれるものがありました。
でも、すべての文字情報を読み切ることなく、
写真だけ撮って終わりにしていました。
そこで、あらためて写真から読み解いてみると、
けっこう興味深いものだと思われました。
 文字情報は、大まかに上下2段に分かれ、上は左から
「清正公大神 / 天満在天神 / 摩利支天神」と3柱の神様のお名前を並べ、
下には、「明治三十五年 / 五月入幕 / 甲保吉立之」とありました。
 入幕・・・ですか。
いまの社会なら、入幕というと、お相撲さんが幕の内に入ること、
を指すと理解するのが普通だと思いますが、
明治35年(1902)というと、ちょっと違うのではと思われます。
日清戦争(1894~1895)を経て、武力を背景に、世界的に打って出ようとする
いまのどこかの国みたいな日本という国は、大英帝国と同盟を結んだという年です。
そして、数年後には、日露戦争(1904~1905)に突入しようとしていました。
そんな時分の「入幕」は、軍隊に入ることでしょう。
密かに心を寄せる神々に、武運長久を祈願された・・・、
そんな石碑ではなかったのでしょうか。

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 石碑の全体像ですが、撮影に失敗し、散々にいじくって
何とかこんな形でご覧いただくのです。

いちのへさんの・・・2009 [忠魂碑の類]

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 藤田の八幡さんの拝殿の手前、西側に、「忠魂碑」と
大書された石碑が、静かに建っていました。

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 「陸軍大将 一戸兵衛書」とありますね。
「忠魂碑」の文字の書き手は、あの一戸さんでありました。

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 一戸さんの忠魂碑の背面を拝見しました。
向こうに、八幡さんの拝殿が見えますので、
位置関係がわかっていただけるかと・・・。

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 こちらは、碑の背面の情報です。
上部に横書きで、「御大典記念」とありまして、
その下に、今度は縦書きで、「昭和三年十一月建設 /
帝国在郷軍人會 / 藤田村分會」とあります。
 ところで、“御大典”って、何のことでしょう。
こんな時、ネットは便利ですね。すぐわかりました。
御大典とは、即位の礼とそれに続く大嘗祭など、一連の皇位継承に関わる儀式を
まとめてそう呼ぶようです。
それで、昭和3年(1928)11月10日には、
昭和天皇の即位の礼が執り行われていたのでした。
そして、時の在郷軍人会会長は、一戸兵衛さんであることもわかりました。
何となく、時代が見えてきます・・・。

とうだ・はちまん [神社まいり]

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 南アルプス市藤田の八幡さんです。
先日訪れましたが、近くには、あの火の見櫓があり、自噴井戸もあり、
また近くの川では、カワガキが見られたりもしたところです。

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 鳥居をくぐると、すぐ右手に、この神社の由緒を記した石碑が建てられていました。
まだ新しい感じの石碑です。
裏側の文面から、平成元年の建碑だと理解できました。
それで、この由緒書が、かなりおもしろく感じたので、次に書き起こしておきます。

藤田八幡神社由来  社記によれば今を遡る一一六〇年前第五十三代淳和天皇 の天長年間(八二四~八三三)に豊前の国(大分県)国幣大社宇佐 神宮より三神を奉遷し治承三年(一一七九)甲斐源氏の祖新羅 三郎義光四代の孫加賀美次郎遠光信仰厚く家門繁栄を祈り 本殿及び諸殿を建築。武田家に於ても神領若干の寄進あり 其の後徳川の代に至り慶長八年(一六〇三)黒印状を以て境内 及石高三石三斗の寄進あり慶安年中(一六四八~一六五一)徳 川家光より朱印状を以て代々寄進ありたるも明治四年(一八 七一)上知となり明治六年(一八七三)郷社に列格さる。  昭和二十年(一九四五)八月大東亜戦争終結により宗教法人 法施行により八幡神社となる。神主は代々藤田村住人村松 上総の子孫たりしが明治四年(一九七一)世襲制度廃止となり 同七年(一八七四)鏡中条村斉藤操、同十年(一八七七)百田村野 沢公雄、同十五年(一八八二)鏡中条村斉藤斉、後小笠原村野 中省内、西条村山本元次、昭和三十年(一九五五)竜王町佐々 木正夫宮司となり現在に至る。    御 祭 神  足仲彦尊(十四代 仲哀天皇)  譽和気尊(十五代 應神天皇)  気長足媛( 神 功 皇 后)    祭   日  四月三日 例祭 御輿の渡御あり  釜無川右岸にて水防祭を行う  二月十一日 紀元節祭  一月元日  新年祈願祭  九月十六日 秋 祭

 きっと、この八幡さんの祭司を司られている宮司さんが、
由緒書等をまとめられたのでしょうが、
その立ち位置がおもしろく感じられました。
 また、由緒と祭神の後に続く、祭日の記録に注目するものがあります。
この書き上げ方から、祭日は神社にとって重要なもの順に
列挙されているように思われますが、
その初めの方に、「釜無川右岸にて水防祭を行う」とあるのは、
この集落の背負ってきた宿命に基づくような気がして、
とくに惹かれるものがあるのでした。

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 石碑の由緒を拝読した後、拝殿に向かうと、その前に、神門があり、
最近もていねいに修繕を重ねられているようすがよくわかりました。

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 そして拝殿と、その前に鎮座する狛犬一対です。

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 拝殿の前まで進み、二礼二拍手一拝のお参りをした後、
拝殿の右手脇から、本殿を拝ませていただきました。
立派な八幡さんのお社なのでありました。

ワタシは、わすれない・・・ [地域の小さな歴史]

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 先日、南部町本郷の原間集落をたずねました。
集落の中の道を歩いていくと、お寺さんらしき光景が見えてきました。

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 石段を配した参道の両脇に、日蓮宗の関係の石碑が並んでいました。
やはり、日蓮宗の寺院のようです。

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 参道の左手に見える石垣は、とてもりっぱに見えました。
風格があるというか・・・。

 この記事の主題は、何か忘れては行けないことがある・・・
ということなのですが、それは、すでにこの3点目の写真の中に存在しています。

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 石段をあがりきると、そこはお寺さんの境内?
しかし、そこにあったのは、地域の集会所でありました。
でも、集会所の裏手には、墓地が見え、集会所の脇には、
墓参のための水くみ桶などが用意されていますので、
本来は、お寺さんだったのでしょう。
いつしか、寺の歴史は途絶え、今のような形になったものと考えられます。

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 集会所に並んで建てられていた、まだ新しそうな石碑ですが、
これにより、「法眼寺」という日蓮宗の寺院であったとうかがわれます。

 核心はこれから、でもちょと長くなりますが、どうか最後までお付き
合いください。

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 集会所に背を向ける形で、先ほど見た、石垣の上に当たる部分です。
整然と9つの石塔が並べられていました。
この光景は、ほぼ間違いなく、あれだな・・・、と思いました。
あれ・・・では、たいへん失礼になりますね。
第二次世界大戦の最中、兵士として戦場にかり出され、なくなられた
方々の墓誌ないしは供養碑です。

 今回は、8月ということもあって、丹念にお参りをかねて拝見、
写真を撮らせていただきました。

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 征空院さん・・・

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 大義院さん・・・

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 累徳院さん・・・

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 勇猛院さん・・・

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 顕忠院さん・・・

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 精進院さん・・・

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 光海院さん・・・

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 正貫院さん・・・

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 大東院さん・・・

 以上、神道でお祀りされていれば、9柱なんでしょうけど、
仏式の法名が採用されていました。
それぞれの石塔の側面の記載などから、昭和28年(1953)ごろに
まとめてここに建てられたようです。

 ところで、なぜ昭和28年頃になってでしょうか。
1945年8月15日、わが日本は、ポツダム宣言を受諾し、敗戦が確定
しました。
それからは、連合軍に“占領”され、一時的に日本は、独立国ではない
状態となっていました。
1951年9月8日、サンフランシスコで、講和条約が調印されました。
正式には「日本国との平和条約」というのだそうです。
この条約は、翼1952年4月28日をもって発効し、事実上、わが国は、
独立を回復しました。
形として、日本の復興が始まる、そうした時期に、平和な日本の再生
の礎として、先の大戦で若い命を散らした方々に、あらためて慰霊の
念を現さなくては・・・。察するに、そのような状況ではなかったか
と・・・。

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 9つの石塔の前には、8月にふさわしい感じの花が咲いていました。

 それにしても、それぞれの方に付けられて、あの世でのお名前、
戦争を肯定し、国民を鼓舞する流れで付けられていることが、ありありです。
仏教界の中にも大政に翼賛していた部分があったのでしょう。

 思うことが、とくに2つあります。
尊い命を散らされた方々は、雲の上から、いまのこの国をご覧になって
どのように思われていらっしゃるのでしょうか。
それから、いまのこの時代、さらにこれから先の時代、ずっと長い目で見たとき、
お一人おひとりに付けられた、これらの石塔に刻されているお名前ですが、
もう少し、安らぎのある自然なものに変えて差し上げる、
そんなことはないものでしょうか。
 ともあれ、8月に限らず、こうしたことに、目を留め、
地域の生の歴史を見つめていきたい、これからも・・・。
そうするなかで、忘れないようにしていきたい。
エート・マンの8月15日に寄せる思いでありました。

朝の月、夜の月 [月や宇宙・宇宙開発]

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 月齢21.9。
昨日の朝8時過ぎの下弦の月です。

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 月齢22.5。
今朝、午前0時過ぎの下弦の月です。

じふん・・・かな [地域の小さな歴史]

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 先日、「火の見ちゃん37」の近くで見かけた、
ちょっと涼しげな光景です。

 自噴の井戸ではないかと思われました。
脇に小さな井戸用ポンプも付けられてはいましたが、
それは補助的なようで、流れ方からして、おそらくは自噴だろうと・・・。
流れ出る井戸水を受ける最初の水槽には、
赤く熟れたトマトがいくつか沈めてありました。
きっと冷たくて、かぶりつくとおいしいんだろうな・・・、
涼しげで、しかもおいしそうな、そんなことでしたが、
どうしてこれが「地域の小さな歴史」というカテゴリに分類されるか・・・。

 甲府盆地のような地形では、うまくすると自噴井戸が作れて、
それが地域の暮らしを支えてきたのです。
それがいまは、そうしたものがなかなか見られなくなってきている、
その変化が歴史だと・・・。

東名の復旧工事に寄せて・・・ [エートマン的kokoro]

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 災害は、忘れた頃にやってくる・・・
といいますが、じゃ、忘れなければ、やってこないのか、
みたいなあまのじゃくなエート・マン的kokoroで書き留めます。

 まず、問題の所在。
2009年8月11日の午前5時過ぎ、駿河湾を震源とするM6.5の地震が発生。
最大震度6弱という揺れは、静岡県中西部と伊豆半島周辺に、
さまざまな爪痕を残しました。

 そうした災害の中で、一番の注目は、東名高速道路の崩落ではないかと思われます。
これについての、若干の想いを書き残しておきたいと思いますが、
テキトーなことなので、(続きを読む)で対応します。

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河川改修工事とあの万年橋 [川と橋の文化誌]

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 突然ですが、この夏、各地で大雨や、また今朝は、やや大きめの地震・・・。
いつ災害が起きるかわかりません。
そうした災害に備えて、地域の安全・安心を確保するための
公共工事が行われています。
ここでは、河川の改修工事がこの秋まで(10月30日だそうで)行われています。

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 そう、この景色、少し前までは、この部分を頻繁に自動車などが走っていたところ、
そしてその先の、いまは通行止めになっているところ、
そこは、かつて旧い万年橋が架かっていたところです。
新しい万年橋は、画面の左手前方に見えています。

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火の見ちゃん37 [火の見櫓]

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 夏空にすっくと立つ、かっこいい火の見櫓を見ました。
写真の中央下部に見える横材に、建設寄贈を記念したプレートがありました。
その銘から昭和31年12月10日の建設だとわかりました。
1956年ですから、前回(火の見ちゃん36)の2000年建設との間には、
44年もの開きがあります。

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 そこはかとなく、気品が感じられます。

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 上部のようすです。

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 火の見櫓の左手にあるのは、消防詰め所兼消防車庫です。
また右手には、地域の防災備蓄倉庫も見られました。
まさに地域の防災拠点でありました。

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 お終いは、消防車庫のシャッターの上方と左手にある、
この火の見櫓を管理されているであろう自治消防組織の名称に注目しました。
上の方には、「若草町消防団藤田分団第一部」とありました。
左側には木の表札が下げられていて、そこには、
「南アルプス市消防団若草分団第六部」となっていました。
こうしたところに、町村合併の状況も読み取れます。