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グローブジャングル@十谷分校跡 [あったとさ]

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 旧鰍沢町立五開小学校十谷分校の跡地でのスケッチの第3弾です。
写真は前々々回の記事の1つ目のものを再掲です。
今回のスケッチのテーマは、この写真の中に隠れています。

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 初めの写真のほぼ中心から切り出した画像です。
これで今回のテーマ、見当つきましたね。なつかしのグローブジャングルです。

 ところでグローブジャングルって、いったい何なのか、どんな広がりがあるのか、
ちょっと深めてみたく思いました。

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「ぢちんほうゆう」碑@十谷分校跡 [地域の小さな歴史]

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 旧鰍沢町立五開小学校十谷分校の一角。写真は前々回記事中の2番目の写真の再掲です。
この写真の中央に、今回の話題は存在しました。

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 とある記念碑です。廃校の隅っこに建てられたこの石碑、何を語るのでしょうか。

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 文字がわかるまで寄ってみました。
そこに刻されている文字は、漢字4文字でしたが、四字熟語とかではないようです。
曰く「地鎮豊邑」
地静まりて豊かなる邑・・・というふうに解するのが浮かびました。
でも、それって何を意味しているの? 背後にきっと何かがある・・・。

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続・分校の跡 [地域の小さな歴史]

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 前回の記事で取り上げた旧鰍沢町立五開小学校十谷分校の跡での話題。
その続編となりますが、今回のテーマは「閉校記念碑」です。

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 その碑の上部、いわゆる題額と呼ばれる部分です。
そこに「五開小学校十谷分校 / 閉校記念」と二段書きされています。

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 もう一度、碑を正面から見てみます。
上部の題額の下に縦書きの碑文が見られますね。
その中身がポイントなんですが・・・。

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 なので、その碑文の主文を細かく見てみました。
碑文の1行目が、また題名のようになっていて、曰く「校歌 明本京静作詞作曲
そうか、碑文の主要部分は、十谷分校の校歌だったのです。
ちょっと関心が向いたので、文字に起こしてみました。

  山また 谷の ほそ道に   父母兄姉の 血は通う   不動の滝の 心もて   うまずたゆまず 一筋に   進むわれらが 五開校

 ということで、校歌の一番と思われる歌詞の後にさらに続きがあります。

   昭和五十六年三月三十一日     鰍沢町長  深沢昭典建     十谷分校閉校記念事業実行委員会 撰

 とありました。
これにより、十谷分校は昭和56年すなわち1981年に閉校となった・・・ということが知られます。

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 さらに碑の裏面をチェックしたところ、このような文面が見られました。
これも関心のまにまに文字に起こしておきましょう。

    十谷分校沿革   明治 八 年 二月  公立十谷学校開設   明治 二十年 九月  十谷部落火災のため閉校   明治二十一年 五月 柳川尋常小学校分校となる   明治二十五年 五月 五開尋常小学校十谷分教場と改称   昭和 十三年十一月 開校五十周年記念式挙行   昭和 十六年 四月  五開国民学校十谷分教場と改称   昭和二十一年 四月 新制五開小学校十谷分校として発足   昭和二十六年 五月 新校舎落成   昭和五十六年 三月 学校統合により閉校    五開小学校第二十五代校長 杉山長太郎謹書

 校歌といい、沿革誌といい、短い文字列の中にとても大きな意味を持つ情報が
いくつも存在することが知られました。そして考えさせられました。
廃校の片隅に、忘れ去られたようにポツンとたたずむ石碑ではありましたが、
まだまだ歴史の証言を続けていただかなければならないなと感じたのです。
がんばれ、閉校記念碑!!!

分校の跡 [地域の小さな歴史]

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 山間に開けた十谷地区。その集落の中ほどに、少々開けた空間がありました。
周囲にソメイヨシノかと見られる植栽、年を経て古木となったのが点々と見られました。
うん、こういう雰囲気はあれしかないなぁ。

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 とても懐かしい雰囲気。
後の記事でまたふれるかと思いますが(当てにならない・・・かも)、
旧の鰍沢町立五開小学校の十谷分校の跡でありました。

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 元の校庭から、集落の中心方向を見ています。

 この懐かしの空間にまた、いくつか話題を見つけていきます。

鈴鹿さんの境内の摂社はすごかった(その2) [神社まいり]

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 富士川町十谷の鈴鹿神社、その境内の摂社の話です。
こちらの写真は、前回の記事の最後の写真(再掲)です。
少し細くしておくと、画面右手に見える狛犬の台座と、小さな石の祠は
前後に遠近の位置にあるのではなく、距離は同じ。
つまりとても小さなものだということ、再確認です。
このような神様の居場所のある一方で、とてもすごいのが見られました。

 それは、連棟社殿です。でも小さな・・・。

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 それがこちら。

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 少し角度を変えて見ました。
連棟社殿。それは神様のお住まいである社殿をつなげた、神様の集合住宅であります。
長屋・・・、神様なのでそういう言い方はどうも、集合住宅です。

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 再び正面から。1・2・3・・・8。
8柱の神々の入居スペースが用意されていました。
社殿建築の様式からすると、八間社流造りとでもいえるのでしょうか。

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 長い社殿の中央に赤い鳥居が立てかけてあります。
鉄板を鋲止めして造った小さな鳥居です。
額の部分には、奉納じゃなくて「納奉」でした。

 以上、富士川町十谷の鈴鹿神社とその境内の摂社についてのメモでありました。

鈴鹿さんの境内の摂社はすごかった(その1) [神社まいり]

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 富士川町十谷の集落の中ほどに、鈴鹿神社があります。

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 赤く彩色された両部鳥居越しに拝殿を見て、さらに進みます。

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 拝殿前に出ました。
その拝殿の正面に「鈴鹿神社」の神号額が掲げられています。

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 拝殿の西側をまわって本殿の前に進み出ました。
本殿は土蔵作りの覆い屋に納まっているようです。
数カットをつなげ広角の画像にしています。

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 拝殿の西側から本殿の覆い屋を見ています。
狛犬が一対本殿の前に置かれているのもちょっと変わっていますが・・・。

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その手前側(西側)の狛犬の陰に隠れるように、小さな石の祠が見られました。
お名前はわかりませんが、とてもひっそりとした神様の居所、摂社と見られました。

こちらにも一戸さんの・・・ [忠魂碑の類]

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 火の見ちゃん47号のとなりには、忠魂碑が祀られていました。

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 こちらがその正面観。

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 そして書き手の部分に焦点を当てると、それは「陸軍大将 一戸兵衛」さん
の書になるものでありました。

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 設置の経過を見たくて裏側にまわってみました。
文字が読みにくい状況でありました。

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 かすかに、「昭和弐年拾月」と読めるようでした。
なお「弐」はあるいは「参」かもしれません。

 一戸さんは、大正9(1920)年に軍の現役を退き、大正15(=昭和1、1926)年から帝国在郷軍人会会長に就任、昭和6(1931)年に亡くなっていますので、
晩年の彼の書だということが理解できたしだいです。

火の見ちゃん47 [火の見櫓]

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 南巨摩郡富士川町十谷の集落の中ほどで見た火の見櫓です。
つい最近の観察ですが、なぜか火災予防運動の啓発バナーが掲げられていました。

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 望楼部分を観察です。四角い平面の望楼に四角形の屋根。
スッキリした構造です。

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 火の見櫓の下の方に、プレートが付けられていました。
鉄板のプレートには「火之見櫓建設寄附者御芳名」というタイトルで、
85名の寄附者と10名の建設委員、13名の後援者の氏名等が鏨彫りで記されていました。

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 こんな感じで鏨で一文字ひと文字、一画いっかくが彫られているのでした。
時には誤字もあり、バツにして脇に訂正が行われたりもし、
とても人間くさいもの・・・、ある意味で年代を感じました。

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 年代・・・、そうそれが問題なのですが、末尾の行に答えがありました。
昭和26年5月に竣工したもののようです。
今年で還暦を迎えられた十谷の火の見櫓でありました。

終点は起点で通行止め [おおっ!]

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 県道407号十谷鬼島線の終点です。
そこに通行止めの表示がありました。

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 さらに全体を見ると、ゲートがシッカリ閉ざされていました。

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 通行止めの文字の上に、その先の道路の路線名が表示されていました。
林道五開茂倉線の起点だったのですが、路肩決壊と落石のための通行止めとことでした。

 あの先にまだ滝があるのに・・・。

注意)十谷鬼島線の終点をこちらだと思っての記事でありましたが、
  正確には、こちらは起点だったと後で判明していますが、ようは思い違いによる
わけのわからないタイトルとなりました。

不動滝at十谷 [川と橋の文化誌]

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 前回の記事の最初の写真の再掲です。
この写真の遠景の富士山とは関係なく、中景の工事現場のことは前回の話で、
問題は近景に橋が見えるでしょう、緩やかな弧を描く橋が・・・。
橋だからその下は川が流れているのですが、その名も清水沢。
川なのだけど、山間を流れるので「沢」です。

 その沢に、滝が見られたのです。
県道407号十谷鬼島線のかたわらに、その滝はありました。

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 先ほどの県道407号に架かる橋は、新不動橋。
ほぼ東西に架かる新不動橋の東詰からでも西詰からでも行けますが、
東詰は例の工事でふさがれているので、西詰から行きます。

 森と空の境界が、画面の左寄りでグッと下がっているところがありますよね。
そこが清水沢による地形でありまして、そちらに向かって遊歩道があります。
画面の右手には、ベンチも見られまして、滝見のためのミニパークになっているのです。

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 緩やかな坂道になっている遊歩道を下っていくと、
やはり清水沢にかかる橋にたどり着きます。その間、徒歩2~3分。

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 この橋の名は、不動橋。
いまは人道橋になっていますが、以前はこちらが県道の本線だったのでありましょう。
いまは新不動橋にその役割を譲って、現役引退? いやいや、まだ現役です。

 実はこの橋、りっぱな滝見橋になっているのです。
長らくお待たせしました。それでは橋の中央から北側に目を向けましょう。

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 眼前に滝壺が展開します。天然の涼デスよぅー。

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 目を上げて勢いよく流れ下るさまに目を見張りました。豪快です。

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 この不動滝は、滝壺から下もまた滝のよう。
不動橋からその全体を見ると、またもや18mmではうまく入らず、
その対角線使用で納めることになりました。雄大です。