石和花火2011 [エートマンの日記]
8月21日は何の日?
答えとしていろいろあるのかも知れません。
いつもお世話になっている「こよみのページ」には、献血記念日とか噴水の日とかいうのがありました。
甲府盆地に住んでいる人や、根っからのファンの人には「石和花火」が上げられるでしょう。
そう、正確には 第47回石和温泉花火大会、というようですが。
そんな8月21日は、朝からぐずついた空模様。
涼しくていいのですが、花火師さんはたいへんだったことと思います。
またそんな天候のためか涼しくて、見ている方に、やや気力に欠ける感がありました。
雲が低く垂れ込め、風もほとんど無く、打ち上げられた花火から発生したガスが滞留し・・・、
大輪の花火の一部を隠してしまう傾向も見られました。
でも、こうして回を重ねる花火大会、例年のように開催され、
よそはともかく、当地は平穏、穏やかでありました。
今回の見物のポイントは、これまでの場所とはだいぶ違っていて、
花火との間に、送電線が横切っていまして、これは東電の御坂線でありました。
これまでの関連記事
2011.08.20 明日は8月21日、石和花火の日
2009.08.21 石和花火2009
2008.08.21 石和花火2008
2007.08.21 石和花火大会・・・
再び、あの分校跡に関して [地域の小さな歴史]
行く夏を惜しみつつ、あの十谷分校の歴史についての続編をのこします。
またまた再掲写真で恐縮ですが
(現在300mbのデータ許容容量が271mbまで消費しているので、同じ写真を何度も使い回してます)
「五開小学校十谷分校閉校記念」の石碑に戻りました。
明治8年(1875)に、地域の皆さんの情熱により創立された十谷学校ですが、
昭和21年(1946)に五開村立五開小学校の十谷分校の位置づけをもって
戦後の民主教育の軌道に乗ることとなりました。
昭和30年、五開村は「昭和の大合併」により新・鰍沢町となり、これにより
五開村立から鰍沢町立の五開小の分校に名称が変わりました。
やがて昭和56年、児童減少により(?)、分校は廃され、地域の子らは本校である
鰍沢町立五開小学校に通うことになったようであります。
歴史は流れ、「平成の大合併」の最終段階で、平成22年3月8日、
鰍沢町は隣接の増穂町と合併し富士川町となり、あの十谷学校の流れを引き継いだ
五開小学校は、富士川町立五開小学校となったですが、それもつかの間、
その3月末をもって、富士川町立鰍沢中部小学校に吸収されていったのでありまして、
十谷分校から見て本校だった五開小学校も、もはや廃校の身となっているのであります。
明治の初めの、たとえ山の上にあっても地域の子どもにしっかりとした教育を・・・の熱い想いは、
時代と共にこのように移り変わってきたのでありました。
「あの分校」とは・・・。次の記事も合わせてご覧ください。
2011.07.29 分校の跡
2011.07.30 続・分校の跡
2011.08.03 もう一度、分校の跡
今回の内容に関係する参考記事
町内小中学校のホームページへのリンク集(富士川町公式HP)
廃校跡を訪ねて(南巨摩・西八代)
「富士川悠遊地典」内の富士川町立五開小学校