旧橋撤去・・・南部橋(その2) [川と橋の文化誌]
まずは次の2つの写真を見比べてみてください。
▲ 写真A
▲ 写真B
写真Aは、2011年12月4日の日曜日に撮影したものです。そして写真Bは本日の撮影です。
南部橋の旧橋が撤去され始めたとお伝えした12月5日の記事から3週間近くたちました。
この間に、右岸側の2径間分のトラスも片付けられてきたようです。
思ったより速いスピードで旧橋撤去が進められているなと感じました。
以下に、本日の観察になるメモをもう少し付け加えておきます。
いちばん右岸側の橋脚を解体している状況を望遠しました。
ニッパーのようなアタッチメントを付けた重機が、じゃんじゃんコンクリートをくだいて
鉄筋を引きちぎっていました。
その反対側には通常型のバックホーもガツンガツンしていました。
富山橋の旧橋撤去で見たときよりも少しだけコンクリートがやさしいのかな、
そんなふうに感じられたのでした。
左岸側からまだ残っている旧橋のようすを見ました。
「旧南部橋を撤去しています」と工事内容を説明する看板が、その工期が
平成24年6月29日までとなっていることを知らせてくれました。
それまでには余裕で片付いてしまうのではないかとも思われました。
鋼材をリベットで組み合わせた、時代を感じさせる旧橋のトラス構造です。
一番手前のトラスには、こうしたプレートが付けられていました。
最近の橋では、桁材の目立たないところに付けられている、道路示方書にもとづいた
情報を示すプレートに相当するものだといえると思われます。
これによると、南部橋の旧橋の左岸側の1径間は、山梨県が昭和24年に建造したもので、
昭和14年の示方による2等橋だと理解されます。
この後、年内は明日くらいまで工事が行われ、その後年末年始の休工になり、
年明けには、3径間分の橋脚基礎などが完全に撤去され、それから川の流れの切り替えが行われ、
残りの左岸側の2径間分の撤去が6月までに行われるのだろうと推測されます。
また折を見て観察を続けていきましょう・・・。
「旧橋撤去・・・南部橋(その1)」はこちらからご覧ください。
▲ 写真A
▲ 写真B
写真Aは、2011年12月4日の日曜日に撮影したものです。そして写真Bは本日の撮影です。
南部橋の旧橋が撤去され始めたとお伝えした12月5日の記事から3週間近くたちました。
この間に、右岸側の2径間分のトラスも片付けられてきたようです。
思ったより速いスピードで旧橋撤去が進められているなと感じました。
以下に、本日の観察になるメモをもう少し付け加えておきます。
いちばん右岸側の橋脚を解体している状況を望遠しました。
ニッパーのようなアタッチメントを付けた重機が、じゃんじゃんコンクリートをくだいて
鉄筋を引きちぎっていました。
その反対側には通常型のバックホーもガツンガツンしていました。
富山橋の旧橋撤去で見たときよりも少しだけコンクリートがやさしいのかな、
そんなふうに感じられたのでした。
左岸側からまだ残っている旧橋のようすを見ました。
「旧南部橋を撤去しています」と工事内容を説明する看板が、その工期が
平成24年6月29日までとなっていることを知らせてくれました。
それまでには余裕で片付いてしまうのではないかとも思われました。
鋼材をリベットで組み合わせた、時代を感じさせる旧橋のトラス構造です。
一番手前のトラスには、こうしたプレートが付けられていました。
最近の橋では、桁材の目立たないところに付けられている、道路示方書にもとづいた
情報を示すプレートに相当するものだといえると思われます。
これによると、南部橋の旧橋の左岸側の1径間は、山梨県が昭和24年に建造したもので、
昭和14年の示方による2等橋だと理解されます。
この後、年内は明日くらいまで工事が行われ、その後年末年始の休工になり、
年明けには、3径間分の橋脚基礎などが完全に撤去され、それから川の流れの切り替えが行われ、
残りの左岸側の2径間分の撤去が6月までに行われるのだろうと推測されます。
また折を見て観察を続けていきましょう・・・。
「旧橋撤去・・・南部橋(その1)」はこちらからご覧ください。
あるベンチ [これ なあにっ?]
甲府市丸の内1丁目18番地先の、県道6号甲府韮崎線・通称「平和通り」に面した歩道、
バス停のあるところを南から北に向かって写した写真です。
歩道の右手の白いフェンスの右手奥は、甲府市役所の新庁舎建設現場です。
この場所で、ちょっとした話題。
それは右手のフェンス前に置かれたベンチについてです。
近くで見るとこんな具合です。
この木製の、一見して何の変哲もないと思われるベンチのどこに意味があるというのでしょうか。
蟹沢山長源寺 [寺院めぐり]
山梨市万力にある曹洞宗の寺院、長源寺さんです。
本堂や庫裏など、近年に建て替えられたようで、新しい感じがしましたが・・・。
昔ながらの参道は、歴史を感じさせるものがありました。
山号の蟹沢山は、「かいたくさん」と読むのがいいのか「かにさわさん」なのか
確認できませんでしたが、資料によるとこの寺院を興した方が、救蟹庵主といわれたとか、
いったいどんなお方なのか、にわかに興味がわきました。
いつかはわかるかなぁ。
本堂の西側の境内には、「万力愛児園」という子ども園があるようで、
園庭ともなっている参道脇には、飛行機の形をしたジャングルジム&すべり台がありました。
トンネルの神様 [いのり・信仰]
こちらは前々回の記事の中の1コマ(再掲)ですが、工事中の万力トンネル(仮称)の
最近の状況を説明したものです。
工事中のトンネルの坑口の真上に注目してみました。
これは、おそらくですが、トンネル掘進中の工事の安全を祈願するためのものだと思われます。
そういえば・・・以前にもこんなの登場していましたね。
ちょっと振り返ってみましょうか。
こちらは山梨リニア実験線のトンネル工事現場での状況で、
2011年2月21日の「進む山梨リニア実験線工事(2)」という記事でお伝えしたものです。
注連というのでしょうか、神様にお供えする飾りまで見られます。
まだありました。2009年8月24日の「トンネル工事中」でお伝えした
河口2期バイパス(すでに供用済み)のトンネル工事現場です。
その時は気付かなかったのですが、あらためてよ~く見てみると、ありますねぇ。
今回の記事のタイトル「トンネルの神様」ですが、もう少し正確にいうならば
「トンネル工事の神様」でしょうね。
人事を尽くして天命を待つ・・・という言葉が浮かんできました。
《2016年8月26日追記》
本日、この記事について、初代『えーと 何だっけ?!』(2016年4月27日終了)から保存しておいた
データを復元し、再登場させました。
その際、河口2期バイパスの建設現場を望遠しての写真について、この記事の主題の「トンネルの神様」
の存在があまりにも把握しにくいものでしたので、元の画像から切り直して、次に追加掲載します。
こちらも参考になさってください。
ちなみに、このブログで使用している画像サイズですが、新『えーと 何だっけ?!』では、
原則として400ピクセルの幅の画像としています。これに対し、初期の初代『えーと 何だっけ?!』では
280ピクセル幅とし、さらに徹底的に画質を落としてデータサイズをおおむね20kb程度に限定しています。
えびかずらの御歌 [ぶんぶん文芸]
えびかづら色づきそめぬ山梨の (えひ可つら色津支そ免ぬ山梨の)
里の秋かぜ寒くなるらし (里乃阿き風佐むくなる羅し)
山梨市万力で見た葡萄畑の紅葉です。
きれいに色づいたブドウの葉を見ていたとき、ふと、明治天皇の御製が浮かんできました。
「えびかずら」はブドウの古名とされていて、「葡萄葛」などと書き表すこともあるそうです。
明治13(1880)年6月に山梨県を巡幸された歴史がございました。
その後えびかずらの葉が、今回ご紹介する写真のように色づいた頃、
御来県の印象を歌に託されたものだということであります。
この明治天皇の御製を刻んだ碑が、甲府市の甲府城跡や甲州市の宮光園などにあります。
進む西関東連絡道路工事 [新しい土地利用のかたち]
一週間ほど前のこと、夕川の周辺を歩いていたとき、とある工事現場に差しかかりました。
ふ~ん、西関東連絡道路・・・ですか。
そういえば、数日前の地元紙に、山梨リニア実験線工事などとともに、
この工事現場のことも紹介されていましたねぇ。
現場では、ボックスカルバートができあがっているのが見られましたが、
その向こうに見えている、標高460mほどの山(万力山とでもいうのかしら)をくりぬく
トンネル工事が進められている・・・らしい。
少し歩くと、ボックスの向こうにトンネル坑口がはっきりと見えました。
ずいぶん進んでいるようですね。
現場事務所の脇のネットフェンスに、地元の方への工事進捗を説明する掲示板が設置されており、
そこに「(仮称)万力トンネル万力工区かわら板」なるものが掲出されていました。
写真はその創刊号で、万力山付近の航空写真に、工事区の状況が重ねられて説明されていました。
(仮称)万力トンネルは、できあがると長さ1,379mとなるそうです。
このうち万力工区は、万力川からの延長608m分だそうです。
ほかの説明資料によれば、この9月1日に坑口が完成し、それからずんずん掘り進められ、
10月17日には、100mを越えたとありました。まだまだ先がありますね。
現場の皆さん、風邪など引かぬよう、気をつけてがんばってください。ご安全に。
あのエノキのいま・・・ [巨木・記念木・気になる木]
甲府市東下条町地内の荒川左岸堤防上にある大きなエノキの木です。
このエノキ、国道358号を毎日のように通りながら季節の移り変わりを感じさせてくれますが、
今年はかなり遅くまで、葉が緑みどりしていたのですが、このほどほとんどが枯れ、
昨晩の季節風で、いまごろはすっかり落葉しきっていると思われます。
ゴホッ、ゴホゴホ、ゴホン・・・。風邪です。皆さんも気をつけましょう。
なかはらはし [川と橋の文化誌]
笛吹市一宮町狐新居の、果樹園地帯のやや奥まったところでであった中原橋です。
橋の欄干の下流側で東詰に橋の名称プレートがつけられていました。
平成4年3月竣功とある、下流側西詰のプレートです。
橋の名称の読み「なかはらはし」です。上流側西詰。
お終いは、下を流れる川ですが、「大石川」でありました。
南無八幡大菩薩、加えて八百万の神々、釈迦牟尼佛並びに諸尊に申す
請い願わくは この中原橋の上から廃棄物の投棄が為されぬことを!
また重ねて伏して願わくは これらのプレートの盗難に遭わんことを!
火の見ちゃん50 [火の見櫓]
50回目の記念すべき火の見櫓は、笛吹市一宮町南野呂地区で見た
これまた背の高い、年代も古い火の見櫓です。
秋色のモミジを添えて逆光でお出ましとなりました。
反対の方向から順光で見ました。
この火の見櫓には、3つの鏨彫りによって記された刻銘のある
鉄板プレートが取り付けられています。
これはその1つで、この地域の出身で米国によって成功をおさめられたと思しき方が、
帰朝された際に寄附されたことによってこの火の見櫓ができました・・・というような趣旨で
その日付が昭和27年5月5日とうがたれています。
他に別な方が帰朝された記念にサイレンを1基寄贈したという趣旨のプレートと、
それからこの写真の火の見櫓の制作者に関するプレートがあるのでした。
「坂野鉄工場」さんはまだご健在か。
甲府盆地の東部には、こちらの製作された作品が多く見られるとの情報をいただいたのは
だいぶ前のこと、ここで情報提供をしてくださった酔人さんに厚く感謝申し上げます。
それにしてもこのところの火の見櫓は、スピーカがたくさん付いています。
生き残りをかけた火の見櫓のなかに、放送塔のような機能に特化したものが多く見られる
ような気がします。
藤巻山永正寺 [寺院めぐり]
中央市藤巻の地にあるお寺、永正寺にお参りし、例のとおりキョロキョロしたの記です。
(この写真と最後の写真は、2011年12月8日の「永正寺境内の忠魂碑」に使用したものの再掲です)
ご本堂にもう少し接近して拝見です。
どこかしらバランスが・・・。シンメトリーじゃないみたい。asymmetryです。
向拝の付く位置が建物中心からやや右にずれているようです。
大棟の飾りは、日蓮宗の寺院の紋章・・・ですね。
そうか、永正寺さんは、日蓮宗の寺院なのですね。
ご本堂に向かって左手には墓地が見られますが、そちらの方から見た本堂建物の側面観です。
向拝のようすです。
向拝柱は海老虹梁によって身舎と連結されています。
右側面を通過して背面に。おやおや、いくつものつっかい棒が・・・。
本堂の背面は、青色の波板鉄板でカバーされていますが、
いたずら心にも、その床下を覗いてみることに・・・。
追加された束でしょうか。礎石に墓石や燈籠の一部が転用されていました。
お寺さんでは、ちちんぷいぷいとおまじないを唱えて、墓石などから魂を抜き、
こうして建築や構造の一部に転用することはままあるそうです。
旧忍村の日蓮宗の寺院、永正寺さん、地域の宗教センターでもありましたが、
歴史の証人でもありました。少しばかり建物の保存に気がかりなところが見られましたが
これからもがんばっていって欲しいと思われました。