かぐわしい神無月のころ [はないちもんめ]
今の時期、嗅覚を研ぎ澄ませるまでもなく、ほのかにかぐわしい香りが漂ってきます。
キンモクセイの花が咲き始めたようです。
わが家の庭でも、雨が少なくたいへん厳しい夏を何とか乗り越えたキンモクセイが
香りを放ち始めていますが、写真は金川の森で見たそれです。
地名『清哲』のこと [難読地名・珍しい地名]
今年の春になって、山梨での難読や珍しい地名について、カテゴリを設けて
折に触れて投稿することにしました。
今回は、「清哲」で、その読みは、「せいてつ」です。
こうした話題は、当地にお住まいの方や近いところの方々にとっては先刻承知というところですが、
ブログという形で打ち出しをする上で、遠くの方もご覧になるのであえて載せさせていただいてます。
「清哲(せいてつ)」そのものの読みは、そんなに難読と言うことではないと思われ、
どちらかというと珍しい地名の部類になると思います。
冒頭の写真ですが、前々回までに登場しました韮崎市清哲町の旧清哲小学校跡にある忠魂碑の
背面にある文字群の一部ですが、「帝国在郷軍人会清哲村分会」は昭和15年の表記、
そして「韮崎市清哲町殉國顕友会」の表記は昭和31年のもので、
戦前の村であったものが、戦後には町になったという移り変わりが理解されます。
もう少し調べて見ると、「清哲」という地名は、合成地名として山梨の中では
けっこう有名なものあるということです。
こうしたことを知る上で便利なのが『角川日本地名大辞典』(1984年 角川書店刊)で、
第19巻・山梨の巻の507ページに「清哲村」の見出しで出ています。
それによると、明治7年に、それまでの4つの村が合併する際、旧村の村名の
それぞれ1字を組み合わせて考えられたものなのだそうです。
さらに細かくふれれば「合併した旧4か村の村名のうち、水上の水、青木の青、
折居の折、樋口の口を組み合わせて清哲とした」とのことです。
水上の水をさんずいとして青と合わせれば「清」に、折を上にして下に口を付ければ「哲」の字に
それで旧村すべて公平に取り込んだ新村名のできあがり・・・。考えたものです。
ちなみに、清哲村から清哲町に変わったのは、昭和29年の韮崎市との合併によるものです。
なお、これまでの「難読地名・珍地名」の一覧がまとめてありますので、よろしければ
ご参照ください。こちらから・・・。
神山村分会の忠魂碑・あとがき [忠魂碑の類]
この4月の終わりに投稿した「神山村分会の忠魂碑」について、読者の方から
コメントを頂戴していたのですが、システムの変更に気付かずに大幅に時間が経過し、
季節も秋になってしまいましたが、追記をさせていただきます。
最初の投稿時に、この忠魂碑の文字の書き手のお名前がよくわからないとして
いつもながら適当にすませていたのですが、4thBPさんから「河内信彦」である旨の ご指摘をいただきました。
4thBPさん、遅ればせながら感謝し、この間の非礼をお詫び申し上げます。
前々回から前回にかけてみた清哲村分会による忠魂碑(復刻版)を見学した後の帰り道、
再度、神山村分会のそれを再確認してきました。
河内信彦の「内」の文字の彫りが、なめらかではなかったのと、泥蜂の巣がかけられたか何かの
汚損の痕によって読みにくくなっていたものの、ご指摘のとおり、「内」であることを
わが目で確認することができました。
さて、字がわかったところで、河内信彦さんについて、若干のメモを残しておきます。
河内信彦さんは、慶応2(1866)年7月に今の山口県で生まれ、長じて陸軍士官学校で学んだ後、
明治21年、陸軍歩兵少尉として任官。後、明治45年3月5日に陸軍歩兵大佐となり、
同日、歩兵第49連隊の連隊長となっています。
この49連隊が山梨との接点ですね。大佐で忠魂碑の書き手になるのは珍しいこと、
何か背景があるのだろうと考えていたことの答えがこれだと考えられるようになりました。
49連隊には、4年ほどおられ、その後、大正10年の陸軍中将となり、正4位に叙せられています。
昭和19(1944)年に10月に79歳で亡くなられました。
この碑の揮毫をしたためた大正4(1915)年は、49連隊長から、少将に昇進して
陸軍歩兵第25旅団長に転身する大正5年の前年のことでありました。
なお、この記事中の河内信彦さんの経歴等は、ウィキペディアの「歩兵第49連隊」の項ほか
「あのひと検索 スパイシー」の中に現れた情報をもとにしていることを付記します。
なおなお、この記事に使用した写真は、2013年4月29日の記事に使用したものの再掲です。