旧歴10月の13番目の月に寄せて [月や宇宙・宇宙開発]
一昨日(11月24日)の夕刻、17時50分ごろ撮影のお月さまです。
撮影時には薄い雲がかかっていまして、あまりよい撮影データではございません。
撮影時刻前後には、やや強く北風が吹いていました。この晩秋に初めての風ではないかと
思われました。この風を待ちわびた部分もありました。やはり、時期々々には
それにあった気象条件がないと困ることもあるようです。
北風が吹いて、その後に、夜空は晴れ渡り、月も一段ときれいでしたが、
改めて撮ることはありませんでした。眺めてうっとりしただけです。
今日、11月26日が満月になるようです。
14番目の月も眺めたかったのですが、昨日は曇りで夜には雨となりました。
話は変わりますが、昨日の朝刊に、H2Aロケットの29号機の打ち上げ成功のことが
写真入りで載っていました。商業衛星の打ち上げの波に乗れるか、意義ある成功だった
ようであります。関係の皆様のご努力に敬意を表し、お祝いを申し上げます。
南都屋根瓦ざんまい(9)の補遺 [見てきたよ]
この画像をアップロードしたまま、当該記事でふれることなく時間が経過してしまい
ました。
奈良市の奈良公園内にある「旧奈良県物産陳列所」の屋根の観察で、避雷針が2基
存在することを確認したまま、そのことにふれることをスルーしていました。
屋根瓦がテーマだったとはいえ、写真をサーバーに送り込んだまま使用せずでは
いけませんので、ちょっとだけメモを残しておきます。
屋根の棟を南側から見て、東側の避雷針の基部を見ますと、そこに横文字で次のよう
に記されていました。
OSAKA HIRAISIN CO.LTD
そこで「大阪避雷針株式会社」とググったところ、「大阪避雷針工業株式会社」に
行き着きました。同社のHPの沿革を見ると、1950(昭和25)年1月に「大阪避雷針」
として設立後、1957(昭和32)年10月に、現在の「大阪避雷針工業株式会社」と
なっていることがわかりました。
この建物の創建年代とは合いませんので、この建物が1951(昭和26)年に国に移管
された直後辺りに避雷針が整備されたことを意味すると考えたいと思います。
たんどく、そして・・・どくりょう [エートマンの日記]
しばらくぶりの投稿です。
こういうことはよくあるのです。
この記事、写真がない・・・。そういうことはあまりないですが、たまには・・・。
何をしていたのかな・・・。
実は、ある本、小説(文庫で4巻本)のとりこになっていました。
耽読です。
そして解放されました。読了です。
またぼちぼち、記事していきましょうか。
そうそう、どんなもの読んでいたか、これについては、また折を見てご紹介しようかと・・・。
こういうことはよくあるのです。
この記事、写真がない・・・。そういうことはあまりないですが、たまには・・・。
何をしていたのかな・・・。
実は、ある本、小説(文庫で4巻本)のとりこになっていました。
耽読です。
そして解放されました。読了です。
またぼちぼち、記事していきましょうか。
そうそう、どんなもの読んでいたか、これについては、また折を見てご紹介しようかと・・・。
南都屋根瓦ざんまい(10) [見てきたよ]
今回の南都の旅は、たいへん短い時間でありました。そうした中で、いろんな屋根瓦を
堪能することができました。その最終は興福寺五重塔であります。
その相輪部分です。
さて、もともと屋根瓦のもつ歴史的な課題を極めようとして見て歩いたわけではなく、
きわめて短い時間に感性のままにシャッターを切った結果を10回の話題としたわけで
きわめて不十分な話でありましたが、これを機に、いっそうわが国の歴史的建造物に
関心を寄せていただけたら幸いかなと想い、ご覧をいただきました皆様に敬意を表しまして
まとめにかえさせていただきたいと存じます。
南都屋根瓦ざんまい(9) [見てきたよ]
少し雰囲気変わって「旧奈良県物産陳列所」のお屋根、見たいと思います。が・・・、
手前の樹木が建物の全景を覆っていて、このままではよくわかりません。
建物はフェンスで囲まれ、正面玄関前の門に、こうしたプレートが掲げられていました。
屋根が見えないかわりに、説明の中身を読み込んでみます。
重要文化財 旧奈良県物産陳列所
昭和58年(1983)1月7日指定/奈良市登大路町50番1
この建物は明治35年(1902)に竣工し、奈良県物産陳列所として開館したもので、
県下の殖産興業と物産の展示販売をおこなう施設として利用された。設計者は、帝国大学
工科大学造家学科(東京大学工学部建築科の前身)出身の建築史学者で、当時奈良県技師
として古社寺建築物修理に尽力した関野貞博士(1867~1935)である。
木造桟瓦葺で、壁や小屋組などに西洋建築の技術をとりいれつつ、外観は和風を基調と
する。唐破風造車寄を正面につけた入母屋造の中央楼から、東西に切妻造の翼部を伸ばし
端には宝形造の楼をおいている。関野は大学在学中より宇治の平等院鳳凰堂を研究してお
り、屋根の形式や左右対称の優美な外観は鳳凰堂に範をとったものと思われる。また蟇股
などの細部には、飛鳥時代から鎌倉時代にかけての伝統的な建築様式を取り入れ、この建
設計と奈良における古建築研究との密接な関係がうかがえる。その一方で窓にはイスラム
風の意匠もみられる。構造・意匠に東西の要素を巧みに取り入れた明治中期を代表する近
代和風建築として高く評価されている。
この建物は開館後、奈良県商品陳列所、奈良県商工館と名称を変え、昭和26年(1951
)に国に移管されて、昭和27年(1952)から55年(1980)までの間に奈良国立文化財研
究所春日野庁舎として利用された。昭和58年(1983)に重要文化財の指定を受け、同年
奈良国立博物館が管理するところとなり、現在は当館の仏教美術資料研究センターとして
利用されている。
平成23年7月 奈良国立博物館
少し長くなりましたが、以上が説明文の全文です(読み仮名省略)。
こちらは、東西方向に棟を置く入母屋の南側に設けられた大破風による出の部分を
見ています。
確かに和風な中に窓枠上部には、イスラム建築に見られるような雰囲気が漂っています。
肝心な屋根瓦を見ますと、奈良時代風の鬼瓦や軒丸瓦が観察できました。
大棟の西端です。鬼瓦の横顔以上に、その背後にある棟飾りが目を惹きました。
棟飾りは東西のほぼ同じ位置に1対が設置されています。
こちらは東側の棟飾りです。脇に避雷針も見られます。
東側棟飾りの基礎の部分に、ヘラ書きによる銘文が見られます。
その銘文ですが、右側の2行は角度の問題から判然としませんが、おそらく明治○○年とかの
制作年にかかる情報かと思われます。
その次の情報ですが、製作者にかかわるもので、いわく。
彫刻兼
製造元
相楽郡加茂村
平岡栄吉
となっているようです。
恐らくですが、平岡さんはこの棟飾りだけをまかされたのではなく、こうしたこだわりの
屋根全体の責任を負ったのではないかと想像されます。
相楽郡賀茂村はいまの京都府木津川市の一部となっていて、今も平岡さんの末裔が造瓦に
かかわっておられるのかは不明ですが、こうした建造物は、瓦製造だけでなく
様々な技術者の結晶のたまもの。ありがたいことです。
もう一つ、東楼の宝形造のトップをご覧ください。
宝形造りならではの屋根の造り、そのトップを納める仕掛けは奈良時代から
そんなに変わっていないようです。基本は桟瓦葺きなので近世後半以降の技術ですが
こうした奈良時代以降の永遠の課題をうまく調整した関野先生の設計の粋が堪能できた
ところでありました。
南都屋根瓦ざんまい(再び番外編) [見てきたよ]
春日大社でござります。
こちらは、檜皮葺。瓦屋根ではなかったですね。
古代には、「瓦もの」というとお寺を指すほど、寺院の屋根には瓦葺きが深くかかわります。
一方、神社や貴族の邸宅などでは、檜皮葺が主流となっていたようです。
春日大社の拝殿の前の参道の一隅に、今進められている式年造替のもようを伝える
説明板が設置されていました。春日の御社の神様は、ご本殿の造り替えのため、
いまは仮のお住まいにおわしますので、斜め左を向いてお参りするようにとの
注意看板が立っていましたが、それに気づかず真正面を向いて、二礼二拍手一拝して
しまいました。だめじゃん。
南都屋根瓦ざんまい(8) [見てきたよ]
東大寺・二月堂です。
寄棟造り、本瓦葺きの国宝建築です。隅棟のライン、とても美しいですね。
奈良時代からのお堂で、修二会の舞台として有名ですが、寛文7(1667)年の
修二会の折、失火で焼失してしまうという このお堂の宿命のような事件を経て
二年後の寛文9年に再建されています。とはいえ、奈良時代からの変遷のようすを
伝える建物として貴重なものとなっているのだそうです。
続けて三月堂です。三月堂は、正しくは法華堂というのだそうですが、こちらも
複雑な構造の建築です。それが屋根の形にも表れているようです。
三月堂の西面に見られる鬼瓦です。隅棟の鬼瓦なんだけど、どうも隅棟ではない。
こんなところに構造の複雑さがうかがえます。
ひとつ前の写真も三月堂を西側から見たものですが、その向かって左側(北側)は
奈良時代の寄棟づくりの建築で、向かって右側(南側)の入母屋の屋根を持つ建物が
乗りかかるように接続しているのだそうで、乗りかかっている部分は鎌倉時代だそうです。
ということで、こちらの写真の鬼瓦は、奈良時代の鬼瓦ということになります。
周りの軒丸瓦なども古代瓦の雰囲気を示しています。
三月堂を南側から見ました。屋根は入母屋の特徴を表しています。
ここでちょっと気になるものがありました。それは破風の下辺の左右の屋根に
ちょこっと何かが付いている、それはどんなものなのかということです。
向かって右側のものに焦点を当てました。いろいろと調べてみたところ、これは
妻降り棟というのがあって、小さな降り棟の先端に妻降り鬼とよばれる鬼瓦が
取り付いているものだということがわかりました。こうした妻降り棟が見られる建築は
あまり多くなく、三月堂の屋根の注目点の一つといえるのかもしれません。
二月堂、三月堂とくれば、やはり四月堂も登場してもらわなければなりません。
他のお堂に比べて、やや小ぶりですが裳階が付いた二重の寄棟造りの近世初期の
建築です。
このお堂は二重の屋根になっていますから、ありましたよ、あれが・・・。
「南都瓦屋根ざんまい(5)」でも確認している、置き瓦です。
この四月堂は、別に三昧堂と呼ばれるそうです。今回の一連の屋根瓦のスケッチ
シリーズ「南都屋根瓦ざんまい」の「ざんまい」は、漢字で表せば「三昧」です。
ここで結びつくとはね、という感じですが、シリーズはまだ終わりません。
もう少しお付き合いください。
南都屋根瓦ざんまい(7) [見てきたよ]
前回の記事と同じ写真ではじまりました。でも今回は屋根瓦といっても
少し違う方向性で見ることになります。
まずは、門の左右に続く築地塀に目を向けていきます。とくに左側は塀の表面が
上塗りして仕上げられたままですが、右側ではちょっと雰囲気が違っています。
さて、その門の右側を切りだして見ました。
よくこねて調整した粘土で積み上げた築地塀の表面に、何かが並んでいます。
それは、屋根瓦の細かく割ったものを壁土の中に埋め込んだものです。
正面に見えてきた二月堂。この小径の両側は、見てのとおりの築地塀。
そのそこかしこに同じような瓦のかけらを練りこんだものが見られます。
きれいに並べられた瓦片は、もとは屋根に乗せられた瓦でした。幾星霜の後、
割れたり傷んだりして、新しいものに差し替えられ、屋根から降ろされたものかと。
それがこうして第二の道を歩んでいるのです。おや、あそこに軒平が・・・。
どれだかわかりますか。
はい、これがそうです。別なところでは軒丸瓦のかけらも観察されました。
長い歴史を伝えている南都ならではのものですね。
(あっ、上手なダジャレになりました)
南都屋根瓦ざんまい(6) [見てきたよ]
これも東大寺塔頭の1つに見られた門ですが、今回はこの門の屋根瓦に注目です。
まずは、軒平瓦・軒丸瓦です。平均的な本瓦葺きの軒端です。軒丸瓦の瓦当は
中心が巴文でその周囲を小さな珠文が取り巻く、中世以降によくあるものです。
留め蓋瓦です。飾りは狛犬みたいな感じです。こういうの、確か、わが甲府城跡でも
出土していたような・・・。
門の屋根の棟を観察しました。いろいろなパーツからできているようです。
そしてそのパーツ一つひとつに名称がありました。深いなぁ~。
なんと屋根瓦ざんまい(番外) [見てきたよ]
エートマンは、このほど古都・奈良に出かけましたが、その目的はけっして
屋根瓦の観察ではありませんでした。だけどです。デジカメからPCに移して、
旅のようすを振り返っていると、屋根瓦がいっぱい、まさに「ざんまい」という状況です。
ま、そればかりではありません、と言い訳を申しつつ、まだ少し、「屋根瓦ざんまい」
続きます。ご辛抱を・・・。
ちなみに今回の写真は、東大寺境内、正倉院から二月堂に続く小径沿いの
塔頭を囲む築地に開いた門や本堂の屋根を見たものでした。