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妙法寺の「靖国の碑」 [忠魂碑の類]

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 再び今福山妙法寺の門前です。
前回の記事の2つ目の写真の右手に接続する光景と思ってください。
この画面の中央に「今福山妙法寺」の山号寺号を刻んだ石柱が建っています。
その手前に太いサルスベリの木が、向こう側に大きなイチョウの木が見られます。

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 そのさらに右手の一画がとても気になりました。
手前のやや影になっているところに建つ石柱に「戦死者の墓」の文字が見られました。
その先の左手には、背の高い墓標がいくつか建ち、
また右手には忠魂碑を思わせるような石碑が見られました。

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 「靖国の碑」の題額が見られ、その下には、旧海軍・旧陸軍、合わせて12名の
戦死者の氏名が刻されていました。
碑の裏側にあたって、いつ頃の建碑だったのか見たいところでしたが、
一見してわかる状況にはありませんでした。

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 初冬の陽射しを浴びて、静かに休まれている英霊たちの御霊に頭を垂れ、
その場をあとにしたのでありました。

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 妙法寺のお堂の屋根の赤いのも、けっこうなランドマークになりますが、
それよりずっと目立つイチョウの木でありました。
今年は、まだ鮮やかな黄色の色付きが、十分に来ていないのも気になりました。

じゅんこく [忠魂碑の類]

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 手前の標柱には「郷社諏訪神社」とあります。
その向こう側、画面の中ほどに、とある石碑が見られました。

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 こちらがその正面観です。
こういうのって気になりますね。どんなことを伝えようとしているのでしょうか。

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 碑面の上部に、題額とみられる「殉国」の文字が見られました。

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 題額の下には、戦争でお国に殉じた多くの方々のお名前や、
没年月日・年齢・場所などが刻されていました。

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 碑の背面の中央に一行、「昭和二十九年春彼岸榊村建之」とありました。
彼の戦争が終わって十年近く、この少し前の昭和27年4月に戦傷病者戦没者遺族等援護法ができ、
これを契機に、個々に、あるいは地域でまとまって、戦没者の慰霊を行うことが
盛んになされています。
ここに見る殉国の碑もそうしたことの現れと理解されます。
 それから「榊村」ですが、明治8年から昭和29年まで存在した自治体名でありました。
ここ曲輪田もその榊村の1つの大字でありましたが、昭和の大合併で「櫛形町」となり、
平成の大合併により、いまの南アルプス市となっています。

いてんさいけんのき [忠魂碑の類]

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 前回の続きの記です。
田中義一陸軍中将の書になる忠魂碑のことですが、続編がありました。
続編にはいる前に確認しておくことがあります。それは田中義一陸軍中将の
書の忠魂碑としては、このブログでは2例目だということです。
以前の田中義一中将のは、2010年6月11日の「ぎいちさんの・・・」という記事
韮崎市富士見ヶ丘で観察されたものでありました。

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 前回の記事の初めの方でもふれましたが、とても大きな部類の忠魂碑です。
その左側面に「大正七年九月帝國在郷軍人會増富村分會建之」と
建立者の情報が刻まれていました。
 さて、この忠魂碑ですが、大正七年(1918)に建立されたときの、そのままということでは
ないようです。それは平成になって周辺が大きく変化したことと関係があります。

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 忠魂碑の周りに、小さな碑が4つ見られましたが、そのうち3つは、戦没者の記名碑でした。
そしてもう1つがこちら。「移転再建の記」の題名で、17行の本文と、「平成三年五月吉日」「増富従軍者会」の結びの2行で構成されています。
 では、その本文をちょっと確認しておきましょう。

   大正七年九月 旧*沢峠の頂に
   相原繁造 小沢信富 比志宇吉
   三氏による敷地の寄贈と 旧
   増富村民の物心両面の協力に
   よりこの碑は建立されました
   以来英霊の顕彰と慰霊の誠を
   捧げる祭祀が続けられて参り
   ましたが 時は移り 塩川ダム
   建設に伴い建立地は移転の止
   むなきに至り この地に再建
   されました
   再建に当たり往時を想いこの碑
   が平和の象徴として仰がれ 郷土
   の繁栄に御加護あるよう祈念
   いたします
   殉国の英霊 この母なる地に 安
   らかにお眠り下さい
      
 以上が今回の話題の「いてんさいけんのひ(移転再建の碑)」の
主眼となる碑文なのでありますが、時は移ろい、この碑に想いを寄せた方々のお気持ちも
ともすると加速してきている時間の流れに押し流されてしまいそう・・・。

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 何とか、少しでも、それを汲み上げることができたら・・・。

義一さんの・・・ [忠魂碑の類]

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 大砲の砲弾のような形、なんだろうな?

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 みずがき湖に出かけた主目的はこの石碑を拝見することにありました。
 碑の周囲を囲っている柵にご注目ください。先ほどの砲弾形はなんだろうな、の答え、お分かりですね。

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 肝心な石碑ですが、大きな忠魂碑でありました。
書き手は田中義一さんでありました。

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 大正年間の建碑でありました。

こちらにも一戸さんの・・・ [忠魂碑の類]

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 火の見ちゃん47号のとなりには、忠魂碑が祀られていました。

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 こちらがその正面観。

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 そして書き手の部分に焦点を当てると、それは「陸軍大将 一戸兵衛」さん
の書になるものでありました。

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 設置の経過を見たくて裏側にまわってみました。
文字が読みにくい状況でありました。

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 かすかに、「昭和弐年拾月」と読めるようでした。
なお「弐」はあるいは「参」かもしれません。

 一戸さんは、大正9(1920)年に軍の現役を退き、
大正15(=昭和1、1926)年から帝国在郷軍人会会長に就任、
昭和6(1931)年に亡くなっていますので、
晩年の彼の書だということが理解できたしだいです。


《補記:2024.4.9》画像リンクの再設定を行いました。

鈴木さんの書になる忠魂碑 [忠魂碑の類]

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 旧須玉町立穂足小学校の校庭に見られた忠魂碑です。

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 鈴木荘六さんの書でありました。

 2007年5月7日の観察でした。

またまたいちのへさんの [忠魂碑の類]

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 先月の下旬に見た、笛吹市内のとある小学校の敷地内の忠魂碑です。

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 よく見られる形の石碑で、中央に「忠魂碑」と大書されています。

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 「忠魂碑」の文字の左側に、文字を書された方の、肩書きと御名が記されています。
すなわち、「陸軍大将 一戸兵衛書」と。
これはまた一戸さんの書だったのです。

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 碑文の裏側にまわると、
  主催 帝國在郷軍人會境川村分會 / 昭和三年六月  建立
とありました。

 一戸兵衛さんは、1855(安政2)年、弘前藩士の子として生まれ、1915(大正4)年
軍人として最上級の陸軍大将にのぼっています。
退役後、1926(大正16=昭和元)年から帝国在郷軍人会の会長を務め、
1931(昭和6)年に亡くなっています。
一戸さんの晩年の在郷軍人会長だった時期には、彼の書いた「忠魂碑」の書が、
全国津々浦々に行き渡り、そこここで忠魂碑が起こされ、人びとに「忠なること」を強いた・・・

 憲法記念日という日に、あえて・・・。
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石川県戦死士尽忠碑 [忠魂碑の類]

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 先日の続きのようで恐縮ですが、例の日本最古の銅像「日本武尊像」をご記憶でしょうか。
その向かって左隣に、一段と興味深いものがありました。

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 それがこちらの「石川縣戰死士盡忠碑」であります。
これまで、このブログでは、戦前によくあった忠魂碑や戦後の忠霊碑などというものを
関心をもって取り上げてきましたが、尽忠碑というのは初めてです。

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 題額と碑文をじっくり見てみます。
題額はともかく、碑文は、かなり難しい・・・です。
建碑の趣旨は、日本武尊像といっしょで、西南戦争で亡くなった方々の慰霊のようであります。
その2行目「明治十年二月鹿児島賊軍起く」は、
その時代の空気を強烈に物語っているように思えます。
その11行目「相共に謀りて尽忠碑を尾山神社内に建つ」とあるのは、どういうことでしょうか。
初めこの尽忠碑は、ここより金沢城公園を挟んで西方の尾山神社の境内に祀られた、
というように読み取れるのです。
でも、ネットでチェックした限りでは、詳細不明です。
13行目に「明治十一年九月」とあります。
なので、確かではありませんが、日本武尊像が建立された明治13年に、合わせられたのかと。

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 碑文の左右には、りっぱな昇り龍の図像が刻されています。
こんなところにも年代を感じますね。
 なお、碑文の末尾には「正三位前田齊泰撰併びに書」とあるのが見られます。
前田さんと言うからには、さては・・・。
やはりそうでした。加賀百万石の実質的に最後のお殿様であらせられた
前田家第12代斉泰(なりやす)さまのことで、明治17年、74歳で亡くなられていますので、
このとき御年68歳であらせられたか。


(補記 2022.4.17)この記事は、長らく画像データがリンク切れとなっておりました。
   このほど、元データから作成し直してアップロードし、表示させました。

佐久神社境内の忠霊碑 [忠魂碑の類]

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 今年の元日にお参りした甲府市下向山町の佐久神社さんの境内でのスケッチです。
大きく「忠霊碑」と書かれた石碑がありました。
立派な書ですが、天野さん(父さんの方)かな、そんなふうにも思いながら、じっくり拝見しました。

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 近づいてびっくり、天野さんではありませんでした。
「靖国神社宮司 筑波藤麿」さんのお手になる書でありました。

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駒橋線24号鉄塔の傍らに存在したもの [忠魂碑の類]

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 昨日、所用があり、上京しました。JR中央線、特急あずさ10号で。
大月市内を通過中、例の送電線鉄塔、やはりチェックしてしまいました。
東電の送電線、駒橋線の24号鉄塔です。

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 1点目の写真とまったく同じものですが、本日のテーマに関わるものとして、
核心部分を中心に切り出しました。
鉄塔が右に寄ってしまってる?! そうですねぇ、意図的です。
この写真の左下隅にご注目ください。
何だかおわかりになりますか。
では、次にこの部分だけを切り出してみましょう。

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 じゃぁ~ん、これが本日のメインテーマ。
なんと、忠魂碑です。
もちろん撮影時には、少しも認識がありませんでした。
今朝になってPC上でチェックしてみたところ、およよ、写ってる・・・ということでした。
また、現場に行く必要がでましたね。
こうしてまたエートマンの徘徊のテーマが芋づる式に現れるのでした。
この忠魂碑の署名は、漢字2文字で表されているようです。
これまで見てきたデータに照らして考えると、「安正」さんではないかと予想されます。
はたしてどうでしょうか。

 ちなみに、安正さんの忠魂碑を扱った過去記事に、次の2つがあります。
1 http://bnvn05.269g.net/article/15075629.html
2 http://bnvn05.269g.net/article/5270788.html

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 こちら、もう少し東京方面に進行した状況で、振り返り気味に撮影した24号鉄塔。
いわずとしれた撚架鉄塔です。
 ちなみに、駒橋線24号鉄塔については、次の過去記事もご参照ください。
http://bnvn05.269g.net/article/15596846.html
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