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まもなく解体完了・・・てきなん中の古い校舎 [忘れないように]

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 今は甲府市立の笛南中、30年以上経過の懐かしい校舎(ああ、個人的な感情が・・・)も
もう少しで解体が終了しそうです。
昨日のお昼休み、ちょっと時間を作って、正門の方から眺めてみました。

100922tekinanJHS02.jpg

 お昼休みで、作業が休止中。工事用のゲートが開いていたままだったので、
そこから撮影させていただきました。
何台もの解体作業用の重機が、この時間だけは、しばしの休息を取っていましたが、
今日の雨の中も作業が続けられるほど、作業は急ピッチで進められています。
新校舎の建設に、出来るだけ早く取りかかる課題があるからなのでしょう。

100922tekinanJHS03.jpg

 鉄筋がむき出しになった校舎の一部、望遠撮影しました。

 この校舎が、どんなふうだったのか。解体工事はいつ始まったのか・・・。
この8月にそうしたことを取り上げた記事がありますので、ご関心の方は、ご参照ください。
 http://bnvn05.269g.net/article/15574991.html
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解体工事が始まった・・・てきなん中の校舎 [忘れないように]

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 お盆中の日曜日(2010年8月15日)に、近くの米倉山に行き、
地域のようすを眺めることがありました。
これは、米倉山北側中腹から見た、笛南中学校のRC3階建て校舎を主に見たものです。
校庭には、プレハブの仮設校舎も建てられています。そして順次解体が進み、
やがて、この建物は、消えて無くなります。

100815tekinanJH02.jpg

 上の写真の校舎屋上の中心部をクローズアップしたものです。
丸い時計の上に、あの懐かしい校章があります。
屋上に上がる階段室の右手に、解体作業用と思われる小型の重機が
上がっているのが確認できました(中央やや左側のは、背後のリサイクル店の重機、無関係です)。

100815tekinanJH03.jpg

 校舎西よりの階段室を示す黒い部分の真上やや左側の屋上にも、
これまた解体工事用と思われる小さめバックホーが見られます。
それから、この写真でもはっきりわかりますが、屋上の周囲に張りめぐらされていた
転落防止用の緑色をしたネットフェンスは、もう取り除かれています。
つまり、もう少しずつ解体作業が始まっているのです。

100815tekinanJH100101.jpg

 こちらの写真は、今年の元日(2010年1月1日)に、やはり米倉山から見た校舎です。
冬なので、空気が澄んでいるのがわかりますが、まだ校庭に仮設校舎の陰もない
在りし日の、あの校舎の姿を見ることができます。
(この写真と1点目の写真は、画像をクリックすると拡大写真が見られます、見比べてみて・・・)

新政権の誕生の目前に・・・ [忘れないように]

090916kokkaigijido01.jpg

 昨日、新しい政権が発足しました。
国会で首班指名が行われようとしている、その少し前、
エート・マンは、霞ヶ関にいました。
明るい未来に寄与できますように、
そんな想いで見た国会議事堂です。
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ゴミ封じ鳥居の観察記 [忘れないように]

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 今日見た「ゴミ封じ鳥居」です。
その意味は、2009年1月3日付けの過去記事をご参照ください。

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 さて、このブログ、時々休みながらも、毎日適当なことのせて
エート・マン・ワールドを展開しています。
それで、常連さんも多くおられますが、
時々、検索エンジンから入られる形もおられます。
その検索キーワードに「鳥居の作り方」というのが結構ありまして、
今日の記事は、そうした状況でのご来訪に、サービス精神を発揮したものです。

 だいぶ前に、角材を組み合わせて、それに赤い色を塗っている観察記を
書いています(2007年5月27日の記事)。
 しかし、今回は、それとは違う作り方を見ましたので、記録します。
丸棒を組み合わせ作っています。
現場で見たときには、これって、ひょっとしたら例の既製品かな、と思ったのですが、
この観察のあと、別件でホームセンターに寄ることがあって、
これと同じ規格の丸棒を見たので、それを求めれば、
製作可能だなと感じました。
以上、ゴミ封じ鳥居の作り方のバリエーションを紹介でございました。

「一年の誤解」その後 [忘れないように]

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 これは、2008年12月29日の『朝日新聞』13版N社会面のトップ記事です。
見出しは「ごみ封じ鳥居/ご利益は?」です。
その趣旨は、最近全国各地の空き地や河川などに、小さな赤い鳥居が設置されており、
それはごみの不法投棄を防ぐため、自治体や地域住民が設置したもので、
神さまがいるところには、ごみは捨てにくい---という日本人の心理に
うまく訴えたもので、一定の効果があるが、「多すぎ」や「2年目」となると
効果が薄れる、というルポでした。
 記事の末尾には、囲みで、さいたま市にある環境商品を扱う会社から
「ごみよけトリー」という商品名で、赤い鳥居が販売されており、
1つ5,000円で、2002年の販売開始からすでに
3,000基を売り上げたとの話題もありました。

 唐突に出現したこの話題ですが、このブログの中でも
この「ごみ除け鳥居」に関係した記事が、次のようにあります。
こんなちょっとしたことでも関心がありまして、それをきちんと整理して
しっかりと頭の中にまとめておけばいいのですが、
すぐに「えーと、えーと、何だっけ?」になってしまいます。
忘れてしまわないうちに、書き留めておく次第です。
なお、過去記事は、お時間あるときにご参照ください。

 2006.5.22 「またも」・・・この記事タイトルと内容は直接関係がありません。
 2007.5.21 「一年の誤解・・・」・・・“ごみ除け”に気付いた話し
 2007.5.22 「『一年の誤解』部分訂正」・・・ごみ除け鳥居の作り方の観察

らいとだうん [忘れないように]

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 昨晩、20:07に、甲府盆地が見下ろせる某所から撮影したものです。
三脚を使用し、F3.9で2秒間露光による撮影です。
このとき、甲府では、「ライトダウン甲府バレー」という催しが行われていました。
これが、明るいか、暗いか・・・。

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 こちらは、同じ場所で、午後8時ちょうどに撮影したものです。
準備不足で、物で支持をしながらの手持ち撮影で、
このため、ひどくブレています。
午後8時を期して行われたライトダウンでしたので、
これを撮っている間にも、一つまたひとつと町の明かりが消えていきました。

081025lightdown00.jpg

 今回のライトダウンについて、ネットでチェックしたところ、
ライトダウン甲府バレー公式情報サイト」の存在を知りました。
もう終了したものではありますが、その考え方などは、
これからの暮らし方に、多少なりとも活かしていかなければと考えます。
ご関心の向きは、そちらのサイトをのぞいてみてください。

ある古墳のこと2 [忘れないように]

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 石塚古墳の続きです。
この古墳は、本格的な発掘調査は当時の状況として困難とされたようで、
数日間の簡易な状況把握がされ、そのレポートは、
1972年に刊行された『蝙蝠塚第一号墳の発掘』という文献に所収されているほか、
1975年発刊の『八代町誌』(上)のp.415~420に再録されています。

 といっても、正確な位置は特定しがたく、浅川から100mほど北の
浅川中学校校庭の造成敷地内だという程度なので、
そうした状況をメモ的にまとめると上のような古墳であったと思われます。
図示した円の大きさは、直径おそよ20mあまりですが、
これは報文中に、「南北13m」とあり、「周濠は考えられない」として
古墳の大きさを限定されていますが、墳丘の周囲に付属的な空間は
やはりあると思われるので、少なくとも直径20あまりの
こうした大きさと見るべきと思われます。

070609plan.jpg

 次に、石塚古墳は、横穴式石室が、予想以上によく残っていたということが指摘できます。
発見時の厳しい状況もあって、石室の入口部分が壊されてしまっているようですが、
残りの部分だけでも、奥行き10mはあったといいます。

 わずか1~2日ほどの石室調査であったようで、当然、完璧な記録図面の作成は
著しく困難であったとみられ、石室床面の記録には、「省略」とされた部分もありました。
石室基礎石の配置情報も残されていないので、推定で青い破線で加筆しました。
これにより、おそらく無袖式の横穴式石室のイメージがつかめるかと思います。

 残っていた石室内には、少なくとも2つの床面が、
約10cmの間層をおいて形成されていたようです。
上の面には、頭骨4を含む遺体が確認され、下の面にも人骨が多く見られたと報告されていて、
繰り返し埋葬があったことが考えられています。

070609objects.jpg

 この石塚古墳から出土した遺物ですが、土器や須恵器、
鉄製の直刀などが記録されています。
 このうち、薄い赤色でカバーした土器群は、平安時代の土器です。
石室内の上の層だけでなく、下の層からも見つかっているとされています。
 また薄いオレンジ色でカバーしたのが6世紀の終わりないし7世紀の
いわゆる古墳時代の土器です。

 こうした状況から、石塚古墳は、古墳時代後期の6世紀の終わり頃に
地域の勢力者の墓として営まれ、その人に関係した人の「追葬」も行われたようですが、
ずっと時代が下って平安時代になっても、埋葬行為などがあったという
地域の歴史を伝えるものだといえます。
 さらに、詳細なことをいうためには情報が不足していますが、
一度失われてしまった地中の文化財は、もうそれ以上の役割を期待してもダメなのですね。
 もっと地中の文化財を大切にしたい・・・
また、そうしたものから得られた情報を有効に利用できるようにしたい・・・
そんな想いを新たにしながら、平和な現在の光景の後ろに隠れた
はるかな歴史を考えてみました。

(この記事は、『八代町誌』1975 によっています)
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ある古墳のこと2 [忘れないように]

070609map.jpg

 石塚古墳の続きです。
この古墳は、本格的な発掘調査は当時の状況として困難とされたようで、
数日間の簡易な状況把握がされ、そのレポートは、
1972年に刊行された『蝙蝠塚第一号墳の発掘』という文献に所収されているほか、
1975年発刊の『八代町誌』(上)のp.415~420に再録されています。

 といっても、正確な位置は特定しがたく、浅川から100mほど北の
浅川中学校校庭の造成敷地内だという程度なので、
そうした状況をメモ的にまとめると上のような古墳であったと思われます。
図示した円の大きさは、直径おそよ20mあまりですが、
これは報文中に、「南北13m」とあり、「周濠は考えられない」として
古墳の大きさを限定されていますが、墳丘の周囲に付属的な空間は
やはりあると思われるので、少なくとも直径20あまりの
こうした大きさと見るべきと思われます。

070609plan.jpg

 次に、石塚古墳は、横穴式石室が、予想以上によく残っていたということが指摘できます。
発見時の厳しい状況もあって、石室の入口部分が壊されてしまっているようですが、
残りの部分だけでも、奥行き10mはあったといいます。

 わずか1~2日ほどの石室調査であったようで、当然、完璧な記録図面の作成は
著しく困難であったとみられ、石室床面の記録には、「省略」とされた部分もありました。
石室基礎石の配置情報も残されていないので、推定で青い破線で加筆しました。
これにより、おそらく無袖式の横穴式石室のイメージがつかめるかと思います。

 残っていた石室内には、少なくとも2つの床面が、
約10cmの間層をおいて形成されていたようです。
上の面には、頭骨4を含む遺体が確認され、下の面にも人骨が多く見られたと報告されていて、
繰り返し埋葬があったことが考えられています。

070609objects.jpg

 この石塚古墳から出土した遺物ですが、土器や須恵器、
鉄製の直刀などが記録されています。
 このうち、薄い赤色でカバーした土器群は、平安時代の土器です。
石室内の上の層だけでなく、下の層からも見つかっているとされています。
 また薄いオレンジ色でカバーしたのが6世紀の終わりないし7世紀の
いわゆる古墳時代の土器です。

 こうした状況から、石塚古墳は、古墳時代後期の6世紀の終わり頃に
地域の勢力者の墓として営まれ、その人に関係した人の「追葬」も行われたようですが、
ずっと時代が下って平安時代になっても、埋葬行為などがあったという
地域の歴史を伝えるものだといえます。
 さらに、詳細なことをいうためには情報が不足していますが、
一度失われてしまった地中の文化財は、もうそれ以上の役割を期待してもダメなのですね。
 もっと地中の文化財を大切にしたい・・・
また、そうしたものから得られた情報を有効に利用できるようにしたい・・・
そんな想いを新たにしながら、平和な現在の光景の後ろに隠れた
はるかな歴史を考えてみました。

(この記事は、『八代町誌』1975 によっています)
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ある古墳のこと [忘れないように]

070602asakawaJHS.jpg

 岡の八幡神社付近から見た、笛吹市立浅川中学校の遠景です。
この学校の創立は、1974(昭和49)年4月1日で、
当時の八代町と境川村の2つの自治体による学校組合立として
誕生しています。

 先日、この浅川中学校の生徒さんたちが、県立博物館で
古墳のことを興味深そうに見ている姿に接しました。
で、思ったのですが、生徒さんたちの学舎の地下には、
古墳があったのですよ・・・と、教えてあげたい・・・。

 統合中学校の開学に先立つ昭和46年4月、
ブルドーザーで敷地の整地中に、6c.末頃の横穴式石室をもつ
古墳が存在したことが確認されています。
その古墳の名称は、「石塚古墳」
事前には、遺跡の存在情報がまったくなかったようなので、
この古墳の名称は、発見時に関係した文化財担当者により
名付けられたものと見られます。

 もう少し、詳細に見てみたいところですが、
参考文献が足りないので、再度チャレンジします。
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ある古墳のこと [忘れないように]

070602asakawaJHS.jpg

 岡の八幡神社付近から見た、笛吹市立浅川中学校の遠景です。
この学校の創立は、1974(昭和49)年4月1日で、
当時の八代町と境川村の2つの自治体による学校組合立として
誕生しています。

 先日、この浅川中学校の生徒さんたちが、県立博物館で
古墳のことを興味深そうに見ている姿に接しました。
で、思ったのですが、生徒さんたちの学舎の地下には、
古墳があったのですよ・・・と、教えてあげたい・・・。

 統合中学校の開学に先立つ昭和46年4月、
ブルドーザーで敷地の整地中に、6c.末頃の横穴式石室をもつ
古墳が存在したことが確認されています。
その古墳の名称は、「石塚古墳」
事前には、遺跡の存在情報がまったくなかったようなので、
この古墳の名称は、発見時に関係した文化財担当者により
名付けられたものと見られます。

 もう少し、詳細に見てみたいところですが、
参考文献が足りないので、再度チャレンジします。
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