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墓場にて [地域の小さな歴史]

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 正覚寺さん訪問の記の続編です。
写真は、国道141号から見た正覚寺の全景ですが、
寺の南側に広く墓地がありまして、そこで拾った地域の歴史のこととなります。

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 前回も見たように、寺の山門前の標柱に
「甲斐源氏始祖 新羅三郎義光公菩提所」とありましたが
こちらは寺の背後の一段高い場所にある源義光さんの供養塔です。

 これ以外にも供養塔や墓石など、興味深いものが多くありました。080114shokakuji07kuyotoh.jpg

 先ほどの義光さんの供養塔は、子の逸見義清さんも一緒に供養されるものでした。 

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 そのなかで、江戸時代ごろのものと見られる石の祠が、
少しばかり注意を引きました。
祠の屋根の正面には武田菱が表され、
軒を支える束の左側には、「陽谷山」。また右には「創開神」とあります。
祠の入口部の左には、「武田義■宮」。右には「新羅文殊宮」とあり、
この写真で見えている祠の右側面には、
「大治二丁未年 / 十月念縁日」と2行書きで、いずれも線刻してあります。
 源義光さんの亡くなったのは、大治2(1127)年10月20日とされていますので、
祠は、正覚寺の“創開神”である源義光を供養するものだと考えられます。

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 義光さんの供養塔から少し南側に、歴代ご住職の供養塔が並んでいます。
お坊さんの供養塔も年代によって少しずつ形が変化してきています。

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 こちらの石塔は、本堂の前にあるもので、中央に「本尊造立檀那」
とありますので、江戸期にご本尊が新たにつくられた際の
その費用をだしたご夫婦を供養するもので、本堂前にあるということは
お寺にとって特別なものだったと考えられます。

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 こちらは、墓地の一角で目についたものですが、
かなり気になる存在です。
 江戸時代の墓碑(ないし供養碑)には、夫婦の戒名が
左右に並んで刻されるのが一般的です。
 そういう意味で、この石塔は、右によって夫の戒名が彫られていて、
右側の奥さんの戒名が入る部分が空いたままになっています。
 奥さんが別な家に再嫁したとか、奥さんが亡くなったとき、
お金を出して、奥さんの戒名を書き入れることを果たすべき後継者がなかった・・・
など、いろいろと想像をしてしまいます。
 もう一つ気になるのは、正覚寺は曹洞宗の寺院なんですが、
どうもこの石塔の内容の形式は、日蓮宗のように思えます。
なぜ他宗の石塔があるのでしょう・・・。

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 このお地蔵さん風の石塔は、背面に「嬰子之墓」と彫られています。
期待されて生まれた子が、まだ小さい赤ちゃんの内に亡くなってしまったのでしょう。
この石塔を造立した方々の心中はいかばかりだったのかしら・・・。

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 こちらは、「奉航院・・・居士 行年二十五才」とある方の
墓碑です。太平洋戦争で海軍の飛行機乗りとして出征され、戦没したかたのもの。
25歳の若さで・・・ご冥福をお祈りしました。

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 最後は、現代のご夫婦がつくられたお墓です。
平成12年12月12日に建立されたようです。
「富士が峰 / 永久に仰がん / 寄り添うて」とあって
その末尾にご夫婦のお名前が並べてありました。
 ふつう墓石を建てる際、建碑者が生前に行う場合は
彫られた名前に赤い色を差すもので、始めお二人の名前は赤でありましたが、
いまではご主人の方だけ銀灰色の色が重ねてありましたので、
先のこちらに来られておられるのだなぁと・・・。
 そこに、とても今様の奥津城の在り方を感じたのであり、
開基さんの供養塔や江戸期のお墓から
今日までのお墓に関わる歴史の流れを感じさせられもしたのです。
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