「日露戦後紀念碑」 [忠魂碑の類]
富士川町平林の文殊堂の境内で見た、日露戦争の終結後の記念碑です。折から雨模様だったのと
団体で、古い歴史を尋ねての現地見学という状況だったため、詳細までは見ず、ということで、そ
の存在のみのメモとなりました。
綿塚の忠魂碑(2/2) [忠魂碑の類]
前回の「綿塚の忠魂碑」ですが、きしくも2006年の今日(10月7日)に出会ってました。
直近の状況より石碑がわかりやすい状況でした。
その時点での観察記録は記事になっていません。以下は、その時の記録になります。
「忠魂碑」の文字、これも立派です。
書き手ですが、前回の記事では草の陰で判読不明により鈴木某としていましたが、
これで「陸軍大将 鈴木荘六書」であることがわかりました。
背面の状況です。
こちらもより見やすい状況でしたが、情報的にはかわりありません。
以上、前回記事と合わせて完結の、甲州市勝沼町綿塚の忠魂碑でありました。
綿塚の忠魂碑(1/2) [忠魂碑の類]
このほど、甲州市勝沼町綿塚の飯綱神社の境外で、忠魂碑を見ました。
ずいぶんと周囲の草木が繁茂していて、注意しないと見過ごしてしまいそうです。
「忠魂碑」と立派に大書されていますが、書き手はどなたか、
「陸軍大将 鈴木・・・」とありましたが、名前の下のほうは草に隠れて確認できずです。
碑の背面を見ました。こちらもきびしいですが、何とか読み取れそうです。
背面の碑面には、右端に「陸軍歩兵上等兵勲八等功七級吉澤晴芳」とありまして
数行分開けて「昭和十年七月建設」とされ、「帝國在郷軍人會綿塚村分會」
「陸軍歩兵中佐吉旲登書」となっていました。
熊野神社前の忠魂碑(本編) [忠魂碑の類]
このほど、笛吹市は八代町北に鎮座まします熊野神社の社前(こちらは八代町南)
に建てられた忠魂碑を 実際に見に出かけました。
それは比較的大きな転石を積み上げて塚状にした最上部に建てられていました。
近づいて確認した忠魂碑の正面全体像です。
「忠魂碑」の大書墨蹟は 左手に添えられた「陸軍大将 一戸兵衛謹書」から
一戸さんの書であることが確認されたしだいです。
一戸さんの忠魂碑の右側に、八代町出身の戦没者の氏名が列記された碑が見られました。
実にたくさんの方々が戦争で尊い命をとられてしまったことを物語っていました。
さて、いよいよ忠魂碑の背面の碑文を確認です。
主たる碑文面は三行あり、中央に「昭和三年十一月十日 建之」とあって、
建碑年月日が確認できました。
それから右側に「帝国在郷軍人会八代聯合分会」とあって、建碑の主体者が、
さらに左側に「帝国在郷軍人会甲府支部長 中林貞治書」とあって、こちらの碑文を
したためたのが、帝国在郷軍人会甲府支部長であったことがわかります。
こうした建碑年・建碑主体者の文面の書き手が示された例は珍しいものと
見受けられました。
熊野神社前の忠魂碑(速報版) [忠魂碑の類]
こちらは、googleのストリートビューで確認した八代熊野神社の社前の景観です。
前回のヒガンバナの花は、この景観の正面の奥手に見られるものでした。
その方向からやや右に寄って、今回のテーマは存在しました。
(未完;詳細は追って追記します)
神山村分会の忠魂碑・あとがき [忠魂碑の類]
この4月の終わりに投稿した「神山村分会の忠魂碑」について、読者の方から
コメントを頂戴していたのですが、システムの変更に気付かずに大幅に時間が経過し、
季節も秋になってしまいましたが、追記をさせていただきます。
最初の投稿時に、この忠魂碑の文字の書き手のお名前がよくわからないとして
いつもながら適当にすませていたのですが、4thBPさんから「河内信彦」である旨の ご指摘をいただきました。
4thBPさん、遅ればせながら感謝し、この間の非礼をお詫び申し上げます。
前々回から前回にかけてみた清哲村分会による忠魂碑(復刻版)を見学した後の帰り道、
再度、神山村分会のそれを再確認してきました。
河内信彦の「内」の文字の彫りが、なめらかではなかったのと、泥蜂の巣がかけられたか何かの
汚損の痕によって読みにくくなっていたものの、ご指摘のとおり、「内」であることを
わが目で確認することができました。
さて、字がわかったところで、河内信彦さんについて、若干のメモを残しておきます。
河内信彦さんは、慶応2(1866)年7月に今の山口県で生まれ、長じて陸軍士官学校で学んだ後、
明治21年、陸軍歩兵少尉として任官。後、明治45年3月5日に陸軍歩兵大佐となり、
同日、歩兵第49連隊の連隊長となっています。
この49連隊が山梨との接点ですね。大佐で忠魂碑の書き手になるのは珍しいこと、
何か背景があるのだろうと考えていたことの答えがこれだと考えられるようになりました。
49連隊には、4年ほどおられ、その後、大正10年の陸軍中将となり、正4位に叙せられています。
昭和19(1944)年に10月に79歳で亡くなられました。
この碑の揮毫をしたためた大正4(1915)年は、49連隊長から、少将に昇進して
陸軍歩兵第25旅団長に転身する大正5年の前年のことでありました。
なお、この記事中の河内信彦さんの経歴等は、ウィキペディアの「歩兵第49連隊」の項ほか
「あのひと検索 スパイシー」の中に現れた情報をもとにしていることを付記します。
なおなお、この記事に使用した写真は、2013年4月29日の記事に使用したものの再掲です。
荒木さんの忠魂碑(2) [忠魂碑の類]
韮崎市清哲町の旧清哲小学校跡にある忠魂碑で、
少し斜め方向から見ました。
力強く大書された碑文「忠魂碑」の文字は、かなり遠くからでもそれとわかるものです。
実はこの夏、小学校跡の北側を通る県道12号韮崎南アルプス中央線を武川方面から南進の際、
運転中の視野の中に、ほんの一瞬、あっ、と気付かせるものがあったのです。
その時は、時間もなかったのでそのままにしてしまいましたが、9月後半の連休中に
この忠魂碑を訪ねることになったという経過があったのです。
それではいったい、大書の書き手は誰なのか・・・。
お決まりのごとく、「忠魂碑」の文字の左脇に、署名者の情報が見られました。
「陸軍大将男爵荒木貞夫謹書」の後に花押まで添えられていました。
荒木貞夫さんは、明治10(1877)年、東京府多摩郡生まれで、昭和41年に没した
旧日本陸軍の軍人さんです。
昭和6年に陸軍大臣になり、同10年に軍功により男爵に叙せられています。
ですからきっと、この碑文が書かれたのは、昭和10年以降なんでしょうね。
お終いに碑の裏側をチェックしてみました。
と、意外な記述がありました。その部分を書き出してみましょう。
昭和十五年三月帝国在郷軍人会清哲村分会に依り建立し昭和二十年終戦に
依り埋没して拾餘年を経過し諸霊位を祀らんとして之を再建す
昭和三十一年三月二十一日再建 韮崎市清哲町殉國顕友会
全部で57名(日清戦争1名・日露戦争1名・大東亜戦争50名・軍属徴傭者5名)のお名前が記された
その末尾にある上記の3行、それからわかることは、
昭和15年に荒木陸軍大臣の書になるところの忠魂碑をたてたのですが、
終戦と共に埋めてしまった・・・。
それから10年ほどして、戦没者の追悼・慰霊の為の建碑等が各地で進められた時分に
当地でもオリジナルの復刻版としてこの忠魂碑が再建された・・・
ということでした。
1つの歴史です。 戦陣に倒れた先人に敬意を表しつつ・・・。
荒木さんの忠魂碑(1) [忠魂碑の類]
韮崎市の清哲小学校跡で見た忠魂碑です。
忠魂碑の詳細を見る前に、清哲小学校とは、について確認しておきます。
学校跡の一角にのこされていた記念碑によると、同校は
「明治六年九月創立」の歴史のある学校でしたが、昭和53年3月に
市内の小学校の統合によって廃校となったものだそうです。
忠魂碑の設置されているようすの全景です。
さらに碑の部分に寄って見ました。
造成された基壇の上に、砲弾型の立石に囲まれて、据わりのよい形に整えられた
碑の本体が立ちます。
たまたま訪れたのがお彼岸中だったので、きれいな花が供えられていました。
一本杉の下の慰霊碑 [忠魂碑の類]
花鳥山一本杉の下、前回の忠魂碑よりさらに杉の木に寄った場所に、
四角柱型の石碑が見られました。
その正面には、「戦没者慰霊之塔」の文字が刻されていますが、
大書された文字の左脇に「厚生大臣 山縣勝見書」と書き手の署名もありました。
正面はそういことですが、こちらでは背面と右側面を見ています。
背面には、「満州事変支那事変大東亜戦争戦没者慰霊の為之を建てる」
「昭和二十八年春彼岸」「花鳥村」と3行にわたる刻銘がありました。
それから左右の側面ですが、合計で110名ほどの戦没者のお名前が列記されているのでありました。
児玉さんの忠魂碑 [忠魂碑の類]
花鳥山の一本杉の下に、忠魂碑が建っています。
この忠魂碑は、中心の文字「忠魂碑」の上に、「日露」「戦役」と2行書きされているのが
ほかにちょっと例を見ないものです。
碑に刻まれた文字の書き手はどなたでしょう。
「陸軍大将従二位 勲一等/功三級 子爵兒玉源太郎書」と左脇に添えられていました。
児玉源太郎さんは、1852(嘉永5年)に周防国福山に生まれ、長じて明治の世を迎えると
箱館戦争を皮切りに軍の道に進み、軍人で政治家という生涯を送り、
1906(明治39)年に没しています。
碑面には「功三級」とありますが後に「功一級」、没後に「正二位」に叙せられています。
花鳥山の忠魂碑の背面です。
上部に篆顎(判読できず)をいただいた下に、日露戦争で命を落としたと見られる
6名の方のお名前が並んでいるのです。
その末尾に建立時期と建碑を営んだ組織名がありますが、それは次のようです。
この碑の建立は、明治39(1906)年2月で竹野原村在郷軍人會によるものです。
年代的には、明治38年の広厳院境内の乃木さんのそれに次ぐ古さです。
その「竹野原村」は、いまの笛吹市御坂町と八代町にまたがる地域で、
それまでの「竹居村」「大野村」「奈良原村」が合併して、明治22年に誕生、
昭和6年に花鳥村と改称されるまで存在したものです。