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富士には墓塔がよく似あふ・・・ [忠魂碑の類]

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 きれいな富士山に、墓塔が似合うなんて・・・、
そんなおかしな話は、ない・・・ですよね。
でも、現実に、背の高い墓塔がいくつも並んでいる光景があり、
それがぐっと、心に焼き付いたことがあります。
先月の終わり(11/30)のことでありました。
 今日、12月8日は、「開戦記念日」
多くの命を散らした太平洋戦争が、1941年のこの日に始まったのです。
その結果として、いま、こうした光景がある・・・。

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 この墓地の、背が高い墓塔は、太平洋戦争において、命を失った
忍野村内野地区出身の方々のお墓なのです。
墓域の一角、この写真の右手に、
「墓碑銘」と題額が付けられた記念碑が建てられています。
碑文は、掘りが浅めなので、碑の文字を読み起こし、次に示します。

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 この碑文から、内野地区から61名の戦没者を出したことが知られます。
建碑されたのは、昭和26年(1951)3月のこと、
この時点で、7名の方については、遺族の手により墓碑が建てられていたけれども、
残る54名の方については、「殆んど荒涼に任せ」た状態であったそうで、
そのままでは、無駄に歴史の流れに埋没してしまうとおそれ、
先にあげた写真のような、たくさんの方々の墓碑が建立された・・・
ということであります。
 今や富士山は、世界的な人類共有の遺産として、ユネスコに
お願いしようとしているのですが、
こうしたワールドワイドなステージに富士山が上がっていくことの
すぐ隣り合わせに、幾多の平和の礎となった方々が静かに眠られていることも
忘れてならないように思われました。
 これまで、いくつか忠魂碑を並べてきましたが、
その多くは、日露戦争後のわが国の軍事一辺倒の勢力が、
国民の意識を「忠」ということに向けさせるべく、
帝国在郷軍人会という全国組織の、分会というかたちの下部組織を
各町村に置き、そこで在郷軍人会長を務めた陸軍大将経験者たちが
「忠魂碑」と大書したものを配布し、碑を建て、それをあがめさせることによって、
着々とあの戦争へ導いていったことが分かります。
 その結果として、富士山を背景に、林立する墓碑群が成立することに・・・。
とかく目を向けることをいとい、そうこうしているうちに忘れ去ってしまう・・・。
エート・マンは、えーと、えーと、と、とぎれとぎれになりがちですが、
そんなことを意識することを続けていきたいと考えている次第です。
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