とあるシンポに行ってきました [調査・説明会・講演会・シンポなど]
10月1日にご紹介したとあるシンポジウムに行ってきました。
さて、シンポジウムのタイトルですが、「勝山城の築城とその歴史性」でありました。
パネラーの皆さんですが、左から建築史・都市史がご専門の東京理科大学教授の伊藤裕久さん、
二人目は、考古学・城郭史などがご専門の帝京大学山梨文化財研究所所長の萩原三雄さん、
そして中世史・武田氏研究がご専門の県教委学術文化財課の平山 優さんでした。
ところで、皆さん、勝山城をご存知ですか。
こちらが、シンポジウム会場となった都留市文化会館から眺めた、
地元で“お城山”と呼ばれている、県指定史跡の勝山城跡です。
手前の市街地は、かつては谷村城下町でありました。
この城下町を含め、勝山城は、たいへん興味深い歴史を伝えています。
シンポジウムに話を戻しますと、都留市教育委員会が現在進めている
「勝山城跡学術調査事業」の中で取り組まれている調査のようすとその成果を
市民に知っていただこうという趣旨が中心で、
実際に会場となった都留市文化会館大ホールは、多くの都留市民で埋まってました。
そうしたことから、シンポでは、初めに調査事業のご担当である
市教委の森屋雅幸さんが、パワポに現地調査の状況をのせて最新の成果を報告されました。
この写真は、成果の中でも最も注目されるものの1つで、
城跡の中心部の北側で確認された石垣構造の一部です。
この新たに確認された石垣は、シンポの中で、その積み方から1590年代、
浅野氏の関与によるものである可能性が高いと説明され、
そこから勝山城の歴史が、より具体的に理解されてくると話されていました。
休憩時間中のパネラーの先生方と、左端はコーディネーターの数野雅彦さんです。
このシンポで繰り出された、一線の先生方から研究最前線の城の見方は、
多くの聴衆を感激させたと思います。
とりわけ、調査成果の中心は、考古学的な調査がもたらした、
先ほどの石垣のことと、お茶壺道中の舞台となっていたものに結びつく可能性のある遺構
などでしたが、それらの興味深い報告に接し、
以前聞いたことのある、同志社大学の森浩一先生の
「考古学は、地域に勇気を与える学問である」という言葉が
脳裏の浮かんだのでした。
これから、勝山城跡の調査成果は、都留市と都留市民に
どんな勇気を与えていくのか、楽しみに見守りたいと思います。
[補記:画像のリンク切れを調整しました 2023.9.5]
2008-10-05 23:59
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コメント(7)
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遠くまでのお出かけ、ご苦労様です。
今回、あらためて都留の町を拝見したところ、つい最近訪れたある町と雰囲気が似ていることに気がつきました。
来年度、この町を探検する機会を設けたいと思っています。
by nontan (2008-10-06 22:46)
nontan様 こんばんわ。コメントありがとうございました。
さて、都留の町は、遠いところ・・・でしたね。
でも、新たに説明を受けた“歴史”は、その距離をずいぶんと短く感じさせてくれるものでした(個人的に)。
ところで、来年度のお楽しみの町とは、どこのことでしょうか。何だかワクワクします。
by bnvn05 (2008-10-06 22:53)
えーと、えーと・・・と探し回り、やっと辿り着きました。「たどりついたらいつも雨降り」モップスではありませんが、「たどりついたらシンポジュウム」で感激感激。
マンホール、送電線、橋と多種多様で面白い事。そう・・・、飛行機の話からSONYの優位性に話を変えてしまい、申し訳無く思っています。
ところで、都留はそんなに遠いところなんでしょうか?そんなに遠くないんだけどナァー。
by GAN (2008-10-07 18:41)
GANさま、ようこそ、ようこそ。
はるばる(?)“えーと王国”にお越しくださいましてありがとうございました。
シンポもお疲れさまでした。またその後の懇談もとても楽しい時間となりました。重ねてありがとうございました。
「都留の町は、遠い」は、具体的な距離ではなくて、何とも表現しがたい感覚で、たぶん間にある甲斐の山々がそうさせているのではないかと思います。
送電線の御坂線から都留線(昔の甲信幹線ですね)のルートでは、とても短いものですが、通常は笹子か御坂でトンネル抜けて・・・ということで、たぶん、ダイレクトに結ばれていないことで、そう感じさせるのかもしれません。
でも、それは車社会の現代ならではの感覚で、戦国から江戸の頃なら、たいていはお山越えなので、全く違ったと思います。
勝山城が社会の最前線で大きな役割を担っていた頃は、いまの車でも「遠い」なんていっていることは、理解されないのではないかと思います。
調査の成果がもたらすものは、そうした時間・空間認識をあらためさせていくのではないでしょうか。
このブログやその周辺で扱っていることは良く言えば“多種多様”、ふつうに言うと支離滅裂です。でも、底流にあるものは・・・
またそのうちにゆっくりとお話が出来たら・・・、その時に譲りたいと思います。
これからもよろしくお願いいたします。
by bnvn05 (2008-10-07 19:25)
コメントの書き方が悪かったですね。
来年度、都留の町を探検したいと考えています(私の発案ではありませんが)。
似ている町は、夏休みに行った西日本の町なので、そうそう簡単には行けそうにありません。
by nontan (2008-10-07 22:01)
温かい歓迎を受け、再度 感謝。
「都留の町は、遠い」に関してチョット長めの 所感を。
私の両親は国中出身です。私は都留で生まれましたが小学生時代、ほとんど毎週末、日川高校近くの母の実家に預けられていました。いとこは95%国中、親戚は国中弁オンパレード。そんな環境でしたから、距離的なものよりも精神的な親近感が、大月駅からバスに乗せられ日川高校前までの道のりを退屈なものにさせませんでした。
谷一小では僻地赴任の国中の先生の言葉に違和感を覚えた生徒が多かったと記憶していますが、私にはそれが変な優越感と親近感でした。
その頃、国中ではテレビがNHKと山梨放送、しかも山梨放送は1週間遅れの再放送、自宅で見終わっているテレビ内容をいとこ達は、夢中になって見てました。「テレビなんか面白くないから他の事しよう」「それはこうなるよ」「デストロイヤーの4の字でおしまい」 叔父叔母は「見ろ、全部当たってる。お前は天才だ」「谷村のぼこは言うことが違う。テレビばっか見なんで外であそべ」と、いとこ達は迷惑だったに違いない。
ところが、笹子・御坂の峠、それらに連なる高い山々が隔ててきた地域性を痛感したのは、懸命にスポーツに汗を流していた中学時代、忘れもしません、県大会決勝の場で、時の監督が「あー・・・。笹子峠はまだまだ高い」と言って、落胆していた姿。競技は優勢と思えるものでしたが。
その後家業を継いで、全国規模の組織に入りました。歴代県会長は全て国中、「郡内に持ってこよう」と働きかけ、笹子峠、御坂峠を越えるのに10数年。
現在の都留の人々が、国中をどのように感じてるかは分かりませんが、「遠い・・・」とは余り感じていないようです。実際に買い物など甲府よりも距離のある新宿のほうが身近と感じていますから。
実際の距離でなく、大袈裟に言うと絶望感を含んだ体制的な距離感を「高さ」で表現し、武田時代の小山田、谷村藩終焉から石和代官所管轄を通じて地域住民に根付いた意識が笹子・御坂の峠に未だに存在するようには思えますが。
交通網の発達と情報の均等化、どこの町も同じ町並み、同じ家並み・・・、と思いきや、都留はチョット違う雰囲気。そんな都留にするためにも、勝山城跡発掘調査を成功させたいと思っています。
随分、話が長く、支離滅裂となりました。私がいくら国中に親近感を持っていようが、都留が大切です。それまでの歴史、文化が生み出した「何とも表現しがたい感覚」の感覚を大切にしたいと思います。お知り合いの皆様に、「都留は遠くない」とお声駆け頂き、お出かけください。
今後とも、ご指導のほど宜しくお願いします。
PS;10月19日 午前10時頃より 桃林軒にて 平成20年度 瑞鶴 口切の儀 午後から 城下町ウォーキング
10月26日 お茶壺道中行列 (裃を着て行列に参加しませんか)
by GAN (2008-10-08 11:09)
GAN様、ご無沙汰してしまいましたが、今日はお茶壺道中、おめでとうございました。
あいにく今日は勤務日でしたので、うかがうことはできませんでした。でも、先ほどテレビで見ました。伝統を再興する取り組み、なかなかでした。都留の名物として益々発展されますようお祈り申し上げます。
by bnvn05 (2008-10-26 20:26)