おんしりんごかししゃおんひ [地域の小さな歴史]
昨日、すなわち3月11日は「恩賜林記念日」でありました。
既に2011年3月4日の「恩賜林100周年の幟」でもふれたように、今年は100周年に当たっています。
本当は、昨日、この記事をアップすべきだったのですが、大きな地震と
その直後の停電のため、その日のうちにアップできなかったので、一日遅れですが、いきます。
それで写真ですが、一般に「謝恩碑」として知られているものです。
その場所は甲府城跡の本丸で、東の天守台と対峙する位置にそびえ立っています。
この謝恩碑について、少し細かく見てみましょう。
以下の記事は、5年ほど前に、とあるHPに載せていた記事ですが、その記事も
昨年(2010年)に閉鎖されていて、いまでは見ることが出来ませんので、
ログとしてここに掲げるものです。
明治40年、43年に山梨県内は大水害に見舞われ、大きな被害を受けました。 このため、44年3月11日、災害で荒廃した県土の復興に役立てるよう、 明治天皇から県内の御料地が、山梨県に下賜されています。 明治天皇の亡き後、遺徳を偲び、大正6年7月の県議会で「御料林御下賜謝恩碑」 の建設が決議されました。謝恩碑の建設は、明治神宮造営局参与伊東忠太工学博士、 同局技師大江新太郎の設計により、同年12月から3か年、当時の金額でおおよそ 10万円を費やして行われました。甲州市(当時は神金村)の萩原山恩賜林内から 産出の花崗岩が使用され、同9年12月に本丸から高百尺という碑が完成。
碑身(高18.2m)はオベリスク型、碑台(高7.4m)はパイロン型という、古代エジプト の記念碑や神殿入口の門の形を模しています。同11年9月に竣工、除幕されました。 建設場所の選定に当たっては、恩賜林が所在する甲府盆地周辺の山々が一望できる所で、 県民の目からもよく見える条件で検討された経過があります。
さて、その県民が御下賜されたお山ともども、見上げるものと考えられ、
甲府城跡のひときわ高く、なおかつ建設が可能であった場所を選んで作られたのですが、
いまでは、高層マンションが出現したりして、「見上げる」存在とばかりは
いっていられなくなってしまっています。
「まもられてるから まもりたい」これは恩賜林100年のコピーですが、
護られてきたことへの感謝の気持ち、今後どうしていくのがいいのでしょうかね。
なお、この記事に関連し、もっと詳細が理解できるとてもよいページが
山梨県のオフィシャルサイトの中にあります。こちらからご参照ください。
2011-03-12 22:46
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