もう一度、分校の跡 [地域の小さな歴史]
山梨県は南巨摩郡富士川町の十谷地区、その集落の中にある分校跡です。
というか、旧鰍沢町立五開小学校十谷分校が昭和56年に、長い歴史に幕を閉じた分校の跡
なのでありますが、これまで「分校の跡」、「続・分校の跡」と2回にわたって取り上げています。
が、またまたここに戻ってきました。その訳は・・・。
分校の閉校記念碑の中に、この地区になぜ蔵造り建造物が多いかを考える上での
重要な手がかりが隠されているような気がしたからです。
裏面の分校の沿革を記した中に、確か・・・。
そう、本文の2行目、すなわち「明治20年9月 十谷部落火災のため閉校」とありましたね。
明治8年に時代の空気の中で、新しく設けられた学校、
それが12年後にこの地区を襲った火災のため、閉校となったというではありませんか。
学校がいったんは閉校になってしまうほどのダメージを残した大火と考えられます。
(確かな記録=裏付け、に当たっていないので、思いこみが強すぎるかも知れませんが)
この地域は、そうした火災から復興を果たしたのでしょう。
その過程で、大切なものを守る蔵造りが大いに採用されたと考えられますし、
戦後になって産業の米といわれる鉄鋼が、まだ貴重だった昭和20年代に、
その貴重な鋼材を使って火の見櫓を建設するという、いち早い機運もそのことに拠っているのでは。
以上、「山の上のお蔵」についての自由研究は、これで結びとなります。
2011-08-04 22:57
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