再び、あの分校跡に関して [地域の小さな歴史]
行く夏を惜しみつつ、あの十谷分校の歴史についての続編をのこします。
またまた再掲写真で恐縮ですが
(現在300mbのデータ許容容量が271mbまで消費しているので、同じ写真を何度も使い回してます)
「五開小学校十谷分校閉校記念」の石碑に戻りました。
明治8年(1875)に、地域の皆さんの情熱により創立された十谷学校ですが、
昭和21年(1946)に五開村立五開小学校の十谷分校の位置づけをもって
戦後の民主教育の軌道に乗ることとなりました。
昭和30年、五開村は「昭和の大合併」により新・鰍沢町となり、これにより
五開村立から鰍沢町立の五開小の分校に名称が変わりました。
やがて昭和56年、児童減少により(?)、分校は廃され、地域の子らは本校である
鰍沢町立五開小学校に通うことになったようであります。
歴史は流れ、「平成の大合併」の最終段階で、平成22年3月8日、
鰍沢町は隣接の増穂町と合併し富士川町となり、あの十谷学校の流れを引き継いだ
五開小学校は、富士川町立五開小学校となったですが、それもつかの間、
その3月末をもって、富士川町立鰍沢中部小学校に吸収されていったのでありまして、
十谷分校から見て本校だった五開小学校も、もはや廃校の身となっているのであります。
明治の初めの、たとえ山の上にあっても地域の子どもにしっかりとした教育を・・・の熱い想いは、
時代と共にこのように移り変わってきたのでありました。
「あの分校」とは・・・。次の記事も合わせてご覧ください。
2011.07.29 分校の跡
2011.07.30 続・分校の跡
2011.08.03 もう一度、分校の跡
今回の内容に関係する参考記事
町内小中学校のホームページへのリンク集(富士川町公式HP)
廃校跡を訪ねて(南巨摩・西八代)
「富士川悠遊地典」内の富士川町立五開小学校
2011-08-21 10:36
nice!(0)
コメント(0)
トラックバック(0)
コメント 0