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希典さん・・・ですか [忠魂碑の類]

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 少し変わった形ですが、これも忠魂碑です。
笛吹市一宮町の広厳院さんの境内にあるものです。
スリムな柱状の石に、「忠魂碑」と大書され、
その下に、「希典書」とあります。
乃木希典さんの書になるものではないかと思われます。

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 こんな感じでお寺の境内の小高い場所に祀られていました。
なお、今回の写真は、2007年8月26日の訪れたときのもので、
その翌日(8月27日)の「広厳院点描」の中でもふれられています。
特に後の写真は、その記事に用いたものの再掲です。

(付記:2021年9月2日)
  当初ブログに使用した写真(280ピクセル幅)が失われ、再度upしようとしたので
 すが、当該データが見当たらなかったので、オリジナル画像から調整し直しました。

一戸さんの・・・(県外編) [忠魂碑の類]

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 いささか時間が経過してしまいましたが、先月の24~25日、
ある企画で、丹波国から山城国にかけて、旅をしました。
その行程に京都古知谷の阿弥陀寺さんがありました。
阿弥陀寺さんへのお参り道は、たいへん急さかでしたが、
木食上人さんよろしく、せっせと長い参道を歩いてお参りしました。
 さて、今回のテーマは、そこで見た忠魂碑です。
忠魂碑は、山梨県内に限ることなく、全国的な存在であります、いうまでもなく。
存在意義も建立年代もおよそ同じです。
ここの忠魂碑は、「陸軍大将一」の下が欠けています。
同行の方々は、あまりご存知ないご様子で、「なんだろうね」的に
通り過ぎて行かれましたが、エート・マンはそれだけでもうピンと来ちゃいます。
一戸兵衛さんの書になる忠魂碑なのでありました。

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 で、例によって、背面に回り込んで観察もました。
「昭和二年八月建之」とだけありました。
1927年の建立で、ざっと80年が経過しています。
 どうでもいいことですが、後から碑の欠損部分を観察すると、
考古学の人が石器の作り方を見るみたいに見て、
何か打ち欠いたように見えなくもありません。
何か不都合があって、「一戸兵衛」の部分を欠き取ろうとしたのでしょうか。
見ただけで答えが分かるものではなし、ナゾです・・・。


《補記:2024.5.5》画像リンクの再設定を行いました。

笹川さんの・・・ [忠魂碑の類]

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 前回にご紹介した招魂社の、拝殿の東隣に、
この忠魂碑が祀られていました。

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「忠魂碑がありました」ではなく、「忠魂碑が祀られていました」としたのは、
碑の上部に、鉢巻きみたいに、しめ縄がかけられていたからです。
で、この碑文の文字の書き手ですが、碑面の左手に「笹川良一謹書」とあることから
あの、笹川良一さんであることが知られます。
よくある忠魂碑では、名前の上に「陸軍大臣」とかの肩書きがつくのですが、
笹川さんの場合は、そんなものつかないのです。

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 碑の背面には、「昭和四四年九月二三日 / 大森正男建之」とありました。
1969年の建碑で、碑を建てられた方は、前回の記事の「由来記」に
出てこられる方のようであります。
 こうした、忠魂碑のあり方もあるのだな・・・
そんな想いがいたしました。

鈴木さんの・・・ [忠魂碑の類]

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 昨日、鈴木荘六さんの書になる忠魂碑を見ました。
いまは、甲府市役所中道支庁舎の敷地内に置かれています。

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 「忠魂碑」と大書され、左側に「陸軍大将鈴木荘六書」と記されています。
裏面には、「昭和九年四月十六日建設」「帝国在郷軍人会右左口村分会」
とありました。
 先ほど、「いまは、・・・」としましたが、元々は、
南小学校の敷地内に建っていたものです。
同小は、わが母校で、洟垂れ小僧の頃、この碑のまわりで
鬼ごっこや隠れんぼなどして、よく遊んだものです。
それが、どういう意味を持つものかも知らずして・・・。
移転の経過はよく知りません。
ずっとどこいったのか、気になっていたのですが、
ふとしたことから、再開を果たしました。
 12月8日が近づいてくると、こんな碑を
すこし注目してみようかと、新たに記事カテゴリを追加して見ました。

兵衛さんの書になる・・・ [忠魂碑の類]

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 ここは、甲府市下曽根町の中の公民館(集会所)の1つです。
以前、養蚕が盛んな頃には、稚蚕共同飼育所として利用されてもいました。
もっと前には、町立保育園でありました。
(実は、ハナタレコゾウの時分にここにお世話になりました)
もっと前は・・・、学校だったとも聞いています。
その一角に・・・

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 やや小さめの忠魂碑があります。
いまはひっそりと立っています。

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 この「忠魂碑」の文字、以前にも見たことがあるように思います。
そうですね、一戸兵衛(いちのへ・ひょうえ)さんの書になるもののようです。
(注:3点目の写真は、縦が70%に変形してあります)

川村さんの忠魂碑 [忠魂碑の類]

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 「元帥陸軍大将子爵」といういかめしい肩書きをもった
川村景明さんが文字を書かれた忠魂碑です。
前回の小さな火の見櫓の対岸にありました。
対岸は、市川三郷町の高田地区でありました。

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 こちらは、忠魂碑に隣接して設けられている慰霊塔です。
大きなもので、宝篋印塔を模したものとなっています。
忠魂碑は、第二次大戦へと突き進む段階のものですが、
こちらの慰霊塔は、第二次大戦で戦没された方々の霊を慰めるものでした。

一戸さんの忠魂碑 [忠魂碑の類]

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 前回、金桜神社の黄金の桜を紹介しましたが、
その金桜神社には、これまで何度もお参りしてきましたが、
それは、拝殿などがあるところの脇の駐車場にとめてのものでした。
それで、今回は、下の鳥居から石段をずっと登っていくことにしました。
しかし、このとき、正午過ぎで、空腹感に襲われていたので、
長く急な石段を登るのには、若干エネルギー不足・・・。
そこで、この写真の右手にある「宮川」さんというおそば屋さんに入り、
腹ごしらえをしてからのチャレンジでありました。
とてもおいしいおそばで、おまけに筍と蕗の煮物をサービスしてくれて
満足感いっぱいでの金桜神社参りとなったのです。

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 お腹がいっぱいになったところで、石段手前で、すこしおそばが落ち着くまで
あっちこっちキョロキョロと・・・。
一番最初に目がとまったのが、この忠魂碑です。

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 陸軍大将一戸兵衛さんの書になるもので・・・

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 背面にまわると、昭和3(1928)年11月に「帝国在郷軍人會宮本村分會」
により建立されたことがわかりました。それも「御大典紀年」として。

続きを読む


忠魂碑 2つ [忠魂碑の類]

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 先日の記事の岩手橋を介しながら、2つの忠魂碑を見ることがありました。

 まずは、山梨市八幡の窪八幡神社境内のそれです。
神社境内の北寄りのやや奥まったところ、
忠霊殿のおとなりにありました。
背面の銘文により、大正4(1915)年11月に、
「帝国在郷軍人会八幡村分会」によって建立されたことがわかります。

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 りっぱな「忠魂碑」の揮毫は、碑面には「安正書」とだけありますが、
これは、明治時代後期に活躍した旧帝国陸軍の軍人、福島安正(1852-1919)によるものです。
 福島さんは、信濃国松本藩の出身で、日清・日露の戦役で働いた後、
参謀次長までになりますが、大正になって引退後は、
各地の在郷軍人会の求めに応じ、忠魂碑などの揮毫を多く残しています。

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 次は、甲州市塩山上於曽の向岳寺の境内にある忠魂碑です。

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 こちらの揮毫は、陸軍中将、廣瀬 猛によるものです。
こちらの忠魂碑については、あまりじっくりとは見ていられなかったので
建立の年月日などはわかりませんが、廣瀬 猛さんは、陸軍大学校長に在職中の
昭和9(1934)年7月19日に死去していますので、
それ以前に成立したものではないかと考えられます。
 福島さんの闊達な書風に比べ、廣瀬さんのそれは、
とても真面目で几帳面な感じを与えてくれているように見受けられました。
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護国の塔 [忠魂碑の類]

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 今回も引き続き6月16日(土)取材の“山中湖放浪の記”シリーズです。
山中湖の北岸で、山中湖村山中から平野に入るかどうか位の場所です。
神社らしき場所を発見(というのもヘンかな)!

070616gokokunotou02.jpg

 玉垣もあるし、鳥居もあるから、やはり神社でしょう・・・???
この鳥居は、ただものの鳥居ではない。
靖国鳥居ではないでしょうか。 ということは、護国神社???

 なお、“靖国鳥居”とは、転びなく2本の丸柱を建て、
上部を断面が長方形の貫で繋ぎ、さらに笠木として丸材を渡す形式で、
白木を原則とするようです。
 ここで見たものは、コンクリート造で、その表面を
白い細かな石を塗り込めて仕上げています。

070616gokokunotou03.jpg

 鳥居をくぐるとそこには、拝殿や本殿といった神社に標準的な構えはなく、
かわりに「護國之塔」と題された塔が立っていました。
 ネットなどで、[山中湖村 護国神社]といった検索をかけても、
山中湖村のその地に、神社の存在は確認できず、
まあ結論的には、ほとんど護国神社の機能を持った戦前起源の
国家神道の一翼をになった施設だと・・・いえましょうか。

070616gokokunotou04chukonhi.jpg

 境内(?)には、元帥・陸軍大将であった子爵の川村景明の揮毫になる
忠魂碑も建てられていました。
背面の銘文により、大正11年の建立であることが確認できました。

 川村景明さんも、気になりますよね・・・。
彼は、嘉永3年(1850)に薩摩藩士の子に生まれ、長じて旧陸軍の軍人さんとなりました。
日清戦争の時に頭角を現し、日露戦争に際して陸軍大将、さらに元帥となります。
大正8年12月から在郷軍人会の会長に就任していますが、この会長さんになると
こうした全国的に建立された「忠魂碑」の揮毫をとることが多くなるようです。
で、川村さんですが、現職のまま大正15年4月に亡くなっています。
(川村さんについては、基本的にウィキペディアの受け売りです)

 このまま終わると、たんなる“右翼”ですが、もう一観察、付け加えましょう。

 この碑ですが、設置に当たった石工さんは、御殿場の方だということが
やはり背面の銘文から分かります。
で、何を言いたいかというと、これにより、当時の地域経済圏の広がりが
なんとなく理解できるではないでしょうか。
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護国の塔 [忠魂碑の類]

070616gokokunotou01.jpg

 今回も引き続き6月16日(土)取材の“山中湖放浪の記”シリーズです。
山中湖の北岸で、山中湖村山中から平野に入るかどうか位の場所です。
神社らしき場所を発見(というのもヘンかな)!

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 玉垣もあるし、鳥居もあるから、やはり神社でしょう・・・???
この鳥居は、ただものの鳥居ではない。
靖国鳥居ではないでしょうか。 ということは、護国神社???

 なお、“靖国鳥居”とは、転びなく2本の丸柱を建て、
上部を断面が長方形の貫で繋ぎ、さらに笠木として丸材を渡す形式で、
白木を原則とするようです。
 ここで見たものは、コンクリート造で、その表面を
白い細かな石を塗り込めて仕上げています。

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 鳥居をくぐるとそこには、拝殿や本殿といった神社に標準的な構えはなく、
かわりに「護國之塔」と題された塔が立っていました。
 ネットなどで、[山中湖村 護国神社]といった検索をかけても、
山中湖村のその地に、神社の存在は確認できず、
まあ結論的には、ほとんど護国神社の機能を持った戦前起源の
国家神道の一翼をになった施設だと・・・いえましょうか。

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 境内(?)には、元帥・陸軍大将であった子爵の川村景明の揮毫になる
忠魂碑も建てられていました。
背面の銘文により、大正11年の建立であることが確認できました。

 川村景明さんも、気になりますよね・・・。
彼は、嘉永3年(1850)に薩摩藩士の子に生まれ、長じて旧陸軍の軍人さんとなりました。
日清戦争の時に頭角を現し、日露戦争に際して陸軍大将、さらに元帥となります。
大正8年12月から在郷軍人会の会長に就任していますが、この会長さんになると
こうした全国的に建立された「忠魂碑」の揮毫をとることが多くなるようです。
で、川村さんですが、現職のまま大正15年4月に亡くなっています。
(川村さんについては、基本的にウィキペディアの受け売りです)

 このまま終わると、たんなる“右翼”ですが、もう一観察、付け加えましょう。

 この碑ですが、設置に当たった石工さんは、御殿場の方だということが
やはり背面の銘文から分かります。
で、何を言いたいかというと、これにより、当時の地域経済圏の広がりが
なんとなく理解できるではないでしょうか。
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