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本定寺境内「殉国の碑」 [忠魂碑の類]

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 市川三郷町宮原の本定寺さんの境内にお邪魔していたときのこと、
ある、気になる石碑を見つけました。

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 これが石碑の全体像です。
上の方に碑題の額がありまして、その下には、たくさんのお名前が掘られているようです。

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 題額に曰く「殉国之碑」 そしてその下には、
先の大戦までに戦没した兵隊さんたちのお名前を書き上げている状況・・・。

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 右端に、建碑の年月日が見えました。
1953(昭和28)年11月3日のことのようです。
1955年前後に、あらためて戦没兵士の供養を進めた動きが
あちこちで見られますが、これもその1例といえるようです。
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またも一戸さんの・・・ [忠魂碑の類]

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 一般県道36号・笛吹市川三郷線の市川三郷町高萩地内を通過中・・・、
そうです、少し前に紹介した洞門工事が行われている場所から、少し芦川沿いに下ったところ。
運転中の視界に、突然「忠魂碑」の文字が飛び込みました。
それで、車をすぐに安全な場所に止めて、観察をさせていただきました。
そこは、先の大戦で命を落とされた兵隊さんたちの慰霊の場所でもありました。
16基の供養塔が並び、17柱の御霊の供養がなされていることろであったのです。
(1つの供養塔は、ご兄弟かと思われる2柱の御名が刻されていました)

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 その一番西北側(川に沿っていえば下流側)に、その忠魂碑は建てられていたのです。
当初は、碑の周りも整備されていたようですが、いつしか石垣が崩れたようで、
少し荒れた感じがしていました。

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 粘板岩系の加工石を用いた碑文の中央に「忠魂碑」と大書され、
左手に「陸軍大将 一戸兵衛書」とありました。

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 始めから3点目までの撮影は、2010年9月4日のことでした。
その時は、あわててというか、ぼんやりとしていて、碑文の裏側のチェックを行わずにいました。
そしてこちらの写真、碑の裏側の銘文です。数日前にあらためて確認に訪れたのです。
曰く「昭和三年九月二十三日 / 帝國在郷軍人會 / 下九一色村分會建設」
 前回取り上げた、同じ兵衛さんの忠魂碑で「富士見村分會」のものより
少し早い時期の建碑でありました。
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佐久神社境内の一戸さんの書になる・・・ [忠魂碑の類]

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 笛吹市石和町河内に鎮座する佐久神社の境内にそれはありました。
端正な姿の忠魂碑であります。

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 碑面の中心部をクローズアップしました。
「陸軍大将 一戸兵衛書」とあります。

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 そして、いつものように裏面を気にしてみました。
1928(昭和3)年12月の建碑で、帝國在郷軍人會・富士見村分會によるものだとわかりました。

 一戸兵衛さんの書になる忠魂碑ですが、今回の佐久神社境内のものを観察したのは、
2006年の8月28日のことでした。
ずうっと忘れていたのですが、ひょんなことから思い出し、メモとして残す次第です。
 なお、これまでエートマンが見てきた、山梨県内の一戸さんの忠魂碑は、
今回と同じ1928年で11月の建碑の藤田村分會のもの
それから下曽根村のもの(年未詳)宮本村分會の、やはり1928年11月のもの
とこれまでに3例を確認しています。

こちらにも希典さんの・・・ [忠魂碑の類]

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 称願寺さんの境内の南側、やや小高くなった部分に、それはございました。

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 付近には、成長したヒノキの木が数本生い茂り、
上の方がヒノキの下枝で隠れてしまっていますが、
なんとか「忠魂」の文字が読み取れました。

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 もっと知りたくて、境内で作業されておられたお寺の方にご了解をいただき、
ほんとに近くまではい上がりました。
それでも全体像は写し取れませんが、「忠魂」の文字が、
希典さんの書になるものだと判明しました。

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 それで、ますます気になって、碑の背後を見させていただきました。
「明治二十七八年役戦病死者」で始まる長文の銘が刻されていることが確認できました。
明治二十七八年役とは、いわゆる日清戦争のことです。

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 碑文の末尾の部分です。
「明治四十三年十二月一日建設」「黒駒村有志」「帝國在郷軍人會 / 黒駒分會」
とありました。
 1910(明治43)年に、この地域の有志と在郷軍人会黒駒分会の手によって、
乃木希典さんの書になる「忠魂」の二文字を表に置き、
背後に日清戦争から日露戦争のあたり(完全に銘文を読み切れていないので推定です)までの
戦病没者を顕彰ないし慰霊する銘文が刻まれた石碑であるとわかりました。
 ところで、1910年というと、今年(2010年)でちょうど百年経過ということになります。
それから、在郷軍人会という組織は、この年の11月3日に設立されたということも
この石碑を理解する上で必要なことかもしれません。

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 ちなみに、最初の写真で右手見に見えていた石碑の背面がこちらで、
「日支事変以後戦没者銘碑」と書かれ、1953年10月17日の建碑で、
「黒駒忠魂碑再建奉賛会建之」とありました。
何かもう一つ秘められたものがありそうです。


《関連過去記事メモ》
 これまでのこのブログ内での忠魂碑などに関する記事は、カテゴリ「忠魂碑の類」からご覧ください。

 とくに乃木希典さんの忠魂碑は、ほかに1つありまして、これに関し次の2つの記事があります。
1「希典さんですか・・・」2008年12月7日
2「希典さんの忠魂碑の追加情報」2009年2月20日
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英霊の御霊 眠る・・・ [忠魂碑の類]

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 広徳寺さんの背後の墓地でのこと。旧家のお墓を拝見しました。

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 一段高く玉垣風の囲みの中に、一際高い墓塔が目を惹きました。
その墓塔の正面には、「忠魂塔」と刻まれていました。
海軍航空兵のまま戦死された御霊が眠っておられます。

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 海軍の飛行機乗りさんの隣には、陸軍の砲兵さんの御霊がやすまれておられました。

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 少し離れた場所にも、陸軍歩兵さんの英霊がやすまれておられました。

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 英霊たちが眠る場所の向こうには、平和な甲府盆地が望めました。
また、夏がやってきましたね・・・。
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安正さんの書になる・・・ [忠魂碑の類]

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 方々を見て歩きながら、いくつかのコレクションをしていますが、忠魂碑もその1つ。
こちらは、笛吹市春日居町鎮目にある山梨岡神社さんの境内にあるものです。

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 山梨岡神社は、背後に神体山とされている御室山があって、
この忠魂碑は、その山裾の傾斜を利用して設けられていて、
なかなか立派なものであります。

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 とても近づきがたい雰囲気をもっている忠魂碑でありましたので、
望遠レンズを通しての観察のみになりましたが、福島安正(1852-1919)さんの
書になる忠魂碑であるとわかりました。
 なお、安正さんの忠魂碑は、ほかに山梨市の窪八幡神社境内にもありますが、
そちらの紹介記事(2007年9月17日)に、安正さんの紹介もありますのでご参照ください。

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 山梨岡神社の境内のようすですが、左手に見えるのが拝殿、右手に神楽殿が見え、
両者の間の奥まったところに、今回の忠魂碑はあります。
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いちのへさんの・・・2009 [忠魂碑の類]

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 藤田の八幡さんの拝殿の手前、西側に、「忠魂碑」と
大書された石碑が、静かに建っていました。

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 「陸軍大将 一戸兵衛書」とありますね。
「忠魂碑」の文字の書き手は、あの一戸さんでありました。

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 一戸さんの忠魂碑の背面を拝見しました。
向こうに、八幡さんの拝殿が見えますので、
位置関係がわかっていただけるかと・・・。

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 こちらは、碑の背面の情報です。
上部に横書きで、「御大典記念」とありまして、
その下に、今度は縦書きで、「昭和三年十一月建設 /
帝国在郷軍人會 / 藤田村分會」とあります。
 ところで、“御大典”って、何のことでしょう。
こんな時、ネットは便利ですね。すぐわかりました。
御大典とは、即位の礼とそれに続く大嘗祭など、一連の皇位継承に関わる儀式を
まとめてそう呼ぶようです。
それで、昭和3年(1928)11月10日には、
昭和天皇の即位の礼が執り行われていたのでした。
そして、時の在郷軍人会会長は、一戸兵衛さんであることもわかりました。
何となく、時代が見えてきます・・・。

希典さんの忠魂碑の追加情報 [忠魂碑の類]

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 笛吹市一宮町金沢の古刹、広厳院さんを先日、おたずねしました。
何度目かわかりませんが・・・、何度おじゃましても
いいお寺さんだなぁと思います。

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 こちらは、境内にある、「希典」と署名がある忠魂碑です。
これについては、2008年12月7日に、すでに紹介していますので、
その過去記事もご参照ください----->こちらから

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 今回の追加情報というのは、碑の背後の銘文が確認できたこと。
以前に見たのは、夏で、草があって背後までまわる気になれなかったのでした。
で、背後の文面を見ると、碑の建立年が「明治三十八年」だということ、
それから建立主体が「御代咲村軍人家族保護會」となっていること、
以上の2点が追加情報の要点です。
多くの忠魂碑は、大正から昭和初年にかけて、“在郷軍人會”という全国組織の
地方ごとにおかれた下部組織によって設置されているのですが、
これは、それらに先立つ、初現的な忠魂碑であると考えられます。
なお、文字の書き手が、野木希典だというのも、それとよく合っています。

笹子駅前の忠魂碑 [忠魂碑の類]

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 この前の記事で触れなかったのですが、実は、笹子駅前の広場には、
大きな忠魂碑が建っていました。

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 「忠魂碑」の文字を書かれたのは、川村景明さんでした。
ここでは、肩書きがとても長いです。
「元帥陸軍大将正二位勲一等功一級子爵」と、とてもえらい方なんだと・・・。

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 こちらは背面の建造者銘の部分です。
「大正十年五月建設 / 帝国在郷軍人会笹子村分会」と記されています。
大正10年は、1921年で、いまはほとんど使われない皇紀では、2581年です。
こうしたえらい方が、地方にまで、文字で出向いて、
ムードを高めていったのですね。
「御国ノ為ニ」思想を・・・。

富士には墓塔がよく似あふ・・・ [忠魂碑の類]

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 きれいな富士山に、墓塔が似合うなんて・・・、
そんなおかしな話は、ない・・・ですよね。
でも、現実に、背の高い墓塔がいくつも並んでいる光景があり、
それがぐっと、心に焼き付いたことがあります。
先月の終わり(11/30)のことでありました。
 今日、12月8日は、「開戦記念日」
多くの命を散らした太平洋戦争が、1941年のこの日に始まったのです。
その結果として、いま、こうした光景がある・・・。

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 この墓地の、背が高い墓塔は、太平洋戦争において、命を失った
忍野村内野地区出身の方々のお墓なのです。
墓域の一角、この写真の右手に、
「墓碑銘」と題額が付けられた記念碑が建てられています。
碑文は、掘りが浅めなので、碑の文字を読み起こし、次に示します。

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 この碑文から、内野地区から61名の戦没者を出したことが知られます。
建碑されたのは、昭和26年(1951)3月のこと、
この時点で、7名の方については、遺族の手により墓碑が建てられていたけれども、
残る54名の方については、「殆んど荒涼に任せ」た状態であったそうで、
そのままでは、無駄に歴史の流れに埋没してしまうとおそれ、
先にあげた写真のような、たくさんの方々の墓碑が建立された・・・
ということであります。
 今や富士山は、世界的な人類共有の遺産として、ユネスコに
お願いしようとしているのですが、
こうしたワールドワイドなステージに富士山が上がっていくことの
すぐ隣り合わせに、幾多の平和の礎となった方々が静かに眠られていることも
忘れてならないように思われました。
 これまで、いくつか忠魂碑を並べてきましたが、
その多くは、日露戦争後のわが国の軍事一辺倒の勢力が、
国民の意識を「忠」ということに向けさせるべく、
帝国在郷軍人会という全国組織の、分会というかたちの下部組織を
各町村に置き、そこで在郷軍人会長を務めた陸軍大将経験者たちが
「忠魂碑」と大書したものを配布し、碑を建て、それをあがめさせることによって、
着々とあの戦争へ導いていったことが分かります。
 その結果として、富士山を背景に、林立する墓碑群が成立することに・・・。
とかく目を向けることをいとい、そうこうしているうちに忘れ去ってしまう・・・。
エート・マンは、えーと、えーと、と、とぎれとぎれになりがちですが、
そんなことを意識することを続けていきたいと考えている次第です。