こちらにも希典さんの・・・ [忠魂碑の類]
称願寺さんの境内の南側、やや小高くなった部分に、それはございました。
付近には、成長したヒノキの木が数本生い茂り、
上の方がヒノキの下枝で隠れてしまっていますが、
なんとか「忠魂」の文字が読み取れました。
もっと知りたくて、境内で作業されておられたお寺の方にご了解をいただき、
ほんとに近くまではい上がりました。
それでも全体像は写し取れませんが、「忠魂」の文字が、
希典さんの書になるものだと判明しました。
それで、ますます気になって、碑の背後を見させていただきました。
「明治二十七八年役戦病死者」で始まる長文の銘が刻されていることが確認できました。
明治二十七八年役とは、いわゆる日清戦争のことです。
碑文の末尾の部分です。
「明治四十三年十二月一日建設」「黒駒村有志」「帝國在郷軍人會 / 黒駒分會」
とありました。
1910(明治43)年に、この地域の有志と在郷軍人会黒駒分会の手によって、
乃木希典さんの書になる「忠魂」の二文字を表に置き、
背後に日清戦争から日露戦争のあたり(完全に銘文を読み切れていないので推定です)までの
戦病没者を顕彰ないし慰霊する銘文が刻まれた石碑であるとわかりました。
ところで、1910年というと、今年(2010年)でちょうど百年経過ということになります。
それから、在郷軍人会という組織は、この年の11月3日に設立されたということも
この石碑を理解する上で必要なことかもしれません。
ちなみに、最初の写真で右手見に見えていた石碑の背面がこちらで、
「日支事変以後戦没者銘碑」と書かれ、1953年10月17日の建碑で、
「黒駒忠魂碑再建奉賛会建之」とありました。
何かもう一つ秘められたものがありそうです。
《関連過去記事メモ》
これまでのこのブログ内での忠魂碑などに関する記事は、カテゴリ「忠魂碑の類」からご覧ください。
とくに乃木希典さんの忠魂碑は、ほかに1つありまして、これに関し次の2つの記事があります。
「希典さんですか・・・」2008年12月7日
「希典さんの忠魂碑の追加情報」2009年2月20日
2010-07-11 23:48
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コメント(2)
エートマンさんお久しぶりです。
乃木希典の忠魂碑ですか・・・本当に多いです。
日本で一番多いのではないかと私なんかは考えてしまいます。
この記事を見てふと気になり今まで撮ってきた忠魂碑を見返してみましたが断トツの発見率を誇っていました。
しかも乃木希典の最期は明治天皇への殉死・・・。
ということは乃木希典が揮毫を寄せた忠魂碑は全て明治45年以前に建てられたものという事です。
次々に来る揮毫の依頼を断ることなく黙々と書き続けた乃木希典、その胸の内は旅順や奉天で散っていった部下たちへの慰霊や贖罪の思いでいっぱいだったのではないでしょうか・・・。
駄文をダラダラと失礼しました。
それでは。
by 4thBP (2010-07-13 17:56)
4thBPさん、こんばんわ。お久しぶりですが、いただけたコメントに感謝申し上げます。
うーん、まだ山梨県内の忠魂碑をそう多く見ているわけではありませんが、それなので感覚的になりますが、乃木希典さんの忠魂碑はそんなに多く見られないように思われます。
どうしてでしょうか、地域的な状況があるのでしょうか。
また乃木さんの気持ちもそうですが、忠魂碑については、見ていくと、いろいろな想いが錯綜します。
それでは、それでは、またよろしくお願いします。
by エートマン (2010-07-14 00:45)