内船浅間さん [神社まいり]
法雲庵は、神社じゃなかった・・・ので、そこから西に見えた神社らしきところを目指しました。
でも、アプローチがなかなか分からなくて・・・。
細い路地をたどっていくと・・・ようやく、それらしい雰囲気がしてきました。
参道の先に石段とさらに先、赤い鳥居が見えてきました。
鳥居があるから、そこは神社だろうなぁ・・・。
でもどんな神社だろうか。
この建物の正面右手の軒下に、気になるものを見つけました。
やややっ、おやなぎさんです。
こうしたところにかける・・・というのも、ありなんですね。
さて、肝心な神社に関する情報ですが、建物の正面に
「内船浅間神社」と書かれた神号額が掲げられていました。
ここにも浅間神社がありましたねぇ。
とにもかくにも、しっかりお参りしました。
でも、ここからは確実に富士山は見えません。
どうしてもここに浅間さんをお祀りしなければならない理由があったのでしょうね。
知りたい・・・けどな、わかんないですね、すぐには・・・。
(2012.02.09 22:20追記)しばらくタイトル間違えていました。訂正します。
ほううんあん+おまけ(2) [寺院めぐり]
法雲庵の境内でお空を見ました。
境内にあるイチョウの木によりそいながら・・・です。
イチョウは2つ並んでありました。
法雲庵のイチョウは、この地域(山梨県の峡南地域)にあっては、
社寺仏閣の境内に大きなイチョウの木が多く見られます。
また、国や県から文化財指定されているものがとても多いのです。
そうした環境の中では、まだまだ若い木だといえそうです。
ほううんあん+おまけ情報(1) [寺院めぐり]
前回の記事でとりあげました南部町内船の法雲庵さんです。
妻入りの構造のお堂を左側面から見ています。
さて、その手前の地面に目を落としてください。
ふるぼけた輪ゴムが落ちています。
いや輪ゴムではありませんでした。
砂地に円形にワラが・・・。
どうやら相撲の土俵のようです。
この地は、地歌舞伎が盛んだとうかがったことがありますが、
相撲も盛んだったということでしょうか。
ほううんあん [寺院めぐり]
内船に出かけると、南部橋(新橋)から眺めて、あそこに行ってみようと、
そんなふうに内船地区を散策することが、何回かあります。
八幡さんの時もそうでしたが、今回は、あの神社に・・・と。
神社かと思って訪ねたところは、棟の鬼板飾りに「法雲庵」という文字を見つけて、
ああ、お寺さんだったんだぁ・・・、ということになり、南無っとお参りしたしだいです。
法雲庵さんは、臨済宗で、同じ内船の大梅山常安寺の末寺だそうです。
向拝の左右に付けられた頭貫の先の木鼻ですが、とても手が込んでいて芸術的、
現代的な臭い、いや作風が感じられます。
こちらは向かって右側の木鼻。両者で阿吽になっています。
向拝の状況です。
法雲庵さんにお参りした後、地元の方に行き会い、お話しをうかがうことが出来ました。
このお寺は平成になってから新しく整備されたお堂なのだそうです。どうりで・・・。
旧橋撤去・・・南部橋(その3) [川と橋の文化誌]
久々に南部橋の旧橋の解体撤去の状況を見学に出かけました。
解体が始まったのを最初に確認した昨年12月4日から、2回目に出向いた12月23日の間は、
大きく状況が進んだことは、前回の記事(http://bnvn05.269g.net/article/17021415.html)で
ご紹介していますが、今回は、2回目とそんなに大きく変わっているようすはありませんでした。
ともかくも5径間あったトラス橋は、東側の2径間分を残して、解体は
ほとんど完了に近い状況にありました。
いま行われているのは、いちばん西側の橋脚の基礎部分の掘り取りのみ・・・
のように見受けられました。
今回のレポートは、南部橋の新橋の上からのものです。
前の3点は、新橋の中央からだいぶ西寄りで見たものですが、
最後のこのカットは、東詰近くから見ています。
この南部橋の旧橋、今後どんな日程で解体が進むのか、ちょっと気になります。
矢崎曠さん(2) [エートマン・モードの人物館]
ふ~ん、そういうお方だったんだぁ・・・。
と、おとぼけ気味にごまかしてはいけませんね。
実は、台座の背面にはこのような
文字が浮き出るように鋳造した銅板プレートが付けられていたのですが、
こうしたものを写真にするととても画像データが重くなります。
いつもこのブログに使用している一枚当たりのデータ容量に納めたところ
まったくよく理解できない写真になってしまいました。
そこで、あらためて初めの方だけ読めるようにしてみました。
画像サイズは、前者が20,959バイトに対しこちらは31,306バイト。大きいですね。
そうそう、肝心な書かれている内容ですが、書き起こすと次のようになります。
なお、原文は縦書きですが、横書きにかえ、数字も算用数字にし、
旧漢字は現行のものにして、句読点もつけています。
矢 崎 曠 翁 略 歴 明治40年4月1日、山梨県諏訪村に生る。幼にして行余 義塾に学び郷に在りて青雲の志を涵ふ。日露戦役に従軍 後樺太境界画定委員となり大任を果たす。大正2年、日本聯 合電灯支配人として実業界に入り、故櫻内幸雄翁の知遇 を得てその才腕を認められ、大正14年、琴川電力を起し、今 日の事業的基礎を樹立す。一方、東京商工会議所議員たる こと前後14年。東都各方面の事業界に活躍。就中、精魂を傾 けて昭和10年、全国に魁け、桑皮を原料とする扶桑紙業を 創立し、成果大にあがる。昭和14年、琴川電力を母体とし日 下部町に製鉄事業を始め、社名を日本電化工業と改む。次 で、日下部バルブ社長を兼ね、第二次大戦後、居を此所に定 む。県下屈指の実業家として、よく後進の指導に当たり、また県 内産業の開発、科学振興の第一線に立ち、その資性を顕わす。 老来益々旺んにしてここに喜寿を迎ふ。 昭和29年春、誌す。
矢崎曠さんの胸像の背面を見てみました。
背中の左下に「昭和廿九年四月 / 周三郎作」と製作年月と作者名が刻されていました。
製作時期は、台座の略歴と同じ時期になっていました。
台座の左側面には、矢崎曠さんの寿像の建立に関しての世話人さん達のお名前がありました。
河西豊太郎さんを筆頭として年齢順に11名のお名前が連なり、
4人目に天野久さん、お終いに櫻内義雄さんのお名前もありました。
櫻内義雄(明治45=1912~平成15=2003)さん、ご存知ですよね。
矢崎曠さんの略歴の中に出てくる櫻内幸雄さんのご子息という関係、
矢崎曠さんを理解する上でキーマンとなる方のようです。
矢崎曠さん、今回初めて、その人となりに接することができたのです。
矢崎曠さん [エートマン・モードの人物館]
山梨市の万力公園の一角に、ブロンズ製の胸像が見られました。
いったいどんなお方?
こうして胸像が公園の中におかれているからには、りっぱな功績を残されたお方なのでしょう。
台座に「矢崎曠翁壽像」という題が付けられていたので、このお方は「矢崎曠」さんなんだ、
寿像というからには、生前に建てられたんだ。ますます凄い・・・。
ということですが、どんなお方なのか、続きは次回に。
PC138USとHB205と・・・ [おおっ!]
富士川町の青柳町地区の工事現場、中部横断自動車道増穂インター周辺の工事現場で、
2つの最新の建設機械をスケッチしました。
まずは・・・
PC138USです。
解体工事仕様車だそうです。
コマツのホームページの説明によれば・・・
過酷な現場にも耐えられる「各部強化」、
より快適にスピーディに作業が出来る作業性能。
そして、オペレータの安全性向上を考慮したガード類
が売り。
どうやらここではブレーカーが装着されているようです。
それからHB205。
コマツのトップページで取り上げられている最新のハイブリッド車です。
「建設機械の世界でも、『ハイブリッド』が、あたりまえの言葉になりますように。」
というコピーと共に。
こちらがその全体像。
大きな工事の現場では、最新の機械が見られます。
きさらぎの色は・・・ [はないちもんめ]
二月は逃げる・・・。 逃げ足早い。
今年は一日プラスで、少しは逃げ方遅いかな。
そんな二月の色は、ウメの花の淡い色。
(2020.1.29 画像リンク修正)