福光園寺前の青面金剛さん [いのり・信仰]
天津司の舞、見た後、回り回って福光園寺さんを訪ねました。
この日、福光園寺さんでもお祭りが行われていました。
でも、ちょっとばかり時間が遅かったようで、皆さん、お片付けの真っ最中。
お邪魔をしてはいけないので、拝観はまた別の機会にして、
神社前の石像物群を拝見することにしました。
そうそう、このお寺さんの重文・吉祥天さんも、このお祭りにあわせて
公開されていたようですが、ちょうど保存庫の扉が閉まるところで、
それはちょっとばかり残念でありました。
さて、三界万霊塔から右方向にずらっとならんだ石像物群ですが、
みな赤い前掛けがかけられているのは壮観でした。
中でとくに釘付けになったのは、これです。
赤い前掛けのために、よくわからないけど、青面金剛像だと思われました。
と、考えているうちに、風が巻いて赤い前掛けをまくり上げました。
うん、やはり青面金剛さんで、間違いありません。
足下に注目です。
左右に鳥の浮き彫りがありました。たぶん烏。
それから、三猿も・・・。
墨書きに込められたものは・・・ [いのり・信仰]
今日で春の彼岸も開けとなります。
このお彼岸の間に墓参したところの話題でありますが、
花と水と線香を手向けた後、例によってキョロキョロとしつつ、
残った水をかけてみた石祠であります。
お水の力で墨書の文字がくっきりとしました。
でも数行の文字列のはじめの文字が読み取れるくらいで、期待以上の成果とはなりません。
正面から見るとこのような石造物です。
この古びた石の祠・・・のようなものも、笠の下の本体の周囲が
墨書きでグルッと埋め尽くされていたと思うと、見方が少し変わります。
書かれた文字、その意図などにより祠とはいえなくなることも考えられますが、
いまは何とも・・・。
少し離れた墓地区画で見られた供養碑です。
並んで表出されたお地蔵さま(?)、それぞれに表情が違ってるのも興味がそそられましたが、
2像の上に表された円も、墨が添えてあるのがよく残っていて、またさらによく見れば・・・、
右手のお像の脇に墨書きで一行、細かな文字列が認められるのも、
お像の衣を止める肩帯に墨がのせてあるのも、造立されたばかりのときどのようなものだったか
想像をかき立てさせるものとなりました。
多くの石像物は、野ざらしで幾星霜を経るうち、本来の姿が変化し、
今の私たちが・・・古い趣を感じる・・・という形になっているのですが、
元々の形やそこに込められた当時の想い、祈り、願いなどは、
古風さと反比例する形でわからなくなってきています。
(悪文ですみません。多分に読みにくいお話で、お許しください)
嘉永2年のばとうさん [いのり・信仰]
先日、某所で目にした馬頭観音の石像です。
尊像の右側に「嘉永二年・・・」の文字を読み取ることが出来ました。
嘉永2年は、1849年。江戸時代の終わり近く、いわゆる幕末です。
静かに両の手を合わせられた観音像、ちょうど道が交わるところの傍らにお立ちでありました。
もっとも台座がかなり新しく調整されたようでしたので、もともとの位置からは
動いているかもしれないのですが、ともかくも長い年月、馬の働く姿、人の行き来の無事を
見つめてきてくれたものと思われます。
観音像の頭頂部に表されたお馬さんの頭です。
オン アミリトドハンバ ウン ハッタ、 オン アミリトドハンバ ウン ハッタ、
オン アミリトドハンバ ウン ハッタ・・・。
おやなぎリース [いのり・信仰]
山梨の中でも峡南(きょうなん)と呼ばれる地域では、1月14日の小正月、
道祖神の祭典の中で、おやなぎさんがきれいに飾られます。
それが終わった後、切り取られたおやなぎの1本いっぽんが、
輪っかにされてそれぞれの家に配られるようです。
昔は、それを家の屋根に投げあげてたようですが、
最近では、・・・・・。
このように飾られる例も増えているようです。
今回の記録は、過去記事「もだんていすとナおやなぎさん」(2011年10月28日)の
記録とほぼ同じような場所で、見たものです。
参考:「おやなぎさんのリスト」
雪の中の六地蔵さま [いのり・信仰]
甲府盆地の中ほどでも、まだ雪が残っています。
この14日の「成人の日」に降った雪です。
六人のお地蔵さまは、体を寄せ合うようにして、
静かに合掌し、祈りをささげていました、雪の中で・・・。
静かな祈りを必要としている、世界中のあちこちで・・・。
あわせて合掌・・・。
[補記:画像データの再設定をおこないました 2023.11.8]
道祖神さんかな。そして・・・ [いのり・信仰]
写真の左上の背後に、「火の見ちゃん59」でとりあげた火の見やぐらの一部が見えてます。
つまり前回見た火の見やぐらのすぐ近くのことです。
道祖神場のように見受けられました。
石の祠に道祖神さんが祀られているのかと思われたのでした。
それにしても、石の祠は、激しく削られた痕がいっぱいです。
削って飲むと何かに効いたというようなことがあったのかもしれません。
それから、そのまわりには、丸石がたくさん・・・。「ぼこ」でしょうか。
道祖神場の一角に「こかげさん」も祀られていました。
大きな自然石の表面に「蚕影山」と。落ち着いた印象の立派な文字です。
書家の名前が記してありました。「川崎順道」さんだと読み取れました。
《補記:2024.4.14》画像リンクの再設定を行いました。
七観音の供養塔あっと福寿院 [いのり・信仰]
甲府市蓬沢の福寿院境内で見た石造物です。
一、二、三・・・七。あれっ、六地蔵さんかと思って見たのですが、
七体の仏さまが浮き彫りになったものでした。
こうしたものは、いままで認識していなかったので、ちょっと驚きでした。
こちらがその全体像。
台石の上に、サイコロのような形の基礎が座り、その上に蓮華座がのります。
その蓮華座の上に、船形光背のような碑がたちますが、そこに七体の仏さまがいらっしゃるのです。
基礎部分には、正面中央に「観音供養」とありまして、その左右に分かちて
「寛政元酉」「七月 日」と記されていました。
これによって、七体の仏さまは、七観音だと理解されました。
七観音とは、「衆生化益のため身を七種に変幻した観音、すなわち千手観音・馬頭観音・
十一面観音・聖(しょう)観音・如意輪(にょいりん)観音・准胝(じゅんでい)観音・
不空羂索(ふくうけんさく)観音の総称」(『広辞苑』第三版より)だそうです。
ちなみに寛政元年は、1789年。江戸時代の後半です。
悲しき青面金剛さん [いのり・信仰]
お寺の入口付近に、青面金剛さんなどが見られることはよくあることですが、
それにしても、お顔を含めた上半がかけてしまっていて、かなり悲しい状態です。
六臂であることや、全体の雰囲気から青面金剛像と見て間違いないと思いますが、
ここまでになっているのは、珍しいですね。
上半部は、欠けたのか、欠かれてしまったのか、それは問題、いまは答えのない・・・。
水の神様(?)と道の神様と [いのり・信仰]
先日、飯田河原古戦場跡とされている周辺を歩いた時のスケッチです。
荒川の左岸堤防の上に、大きく育ったエノキの木がありまして、その木の根元に
小さな石の祠がありました。
今日になって、この祠の存在が少しばかり気になりました。
というのは、水の神様というキーワードが脳裏をかすめることがあったからです。
堤防の上に祀られたこういう祠は、やはりお水神さんじゃないのかなぁ・・・
と、こうしたものを思い出したのです、その時に・・・。
水とうまく付き合うための装置、といったら語弊がありますが、
先人は、どうしたら水の神様を味方につけられるか、
とても大切に考えていたと思われます。
水は必要ですが、堤防が切れてしまうほどでは困りますから、
そう祈るほかはなかったのでしょうね。
お水神さんと思しき石の祠の傍らに、馬頭さんもお祀りされていました。
紀念銘がよく読み取れますね。「天保十五年」と。
西暦では、1844年で、19世紀の中葉。
ちなみに、天保15年は、12月2日に改元され、弘化となっていきます。
もう四半世紀すると明治、そんな時期に建てられた馬頭さん。
行き交う馬や人の安全を見守る往来の神様です。
ある法華塔 [いのり・信仰]
甲州市塩山平沢地内を通過する一般県道207号平沢千野線のかたわらで、
「法華塔」と大きく彫り込まれた石碑を見ました。
重要なのは、「法華塔」の文字の上部に、2行に分かち書きした「一字」「一石」の文字です。
これは、500円玉前後の大きさの自然石の1つひとつに、経文を1字ずつ書き込み、
それを埋めて供養したことの記念碑だろうと推測されたからです。
一字一石供養塔とも呼ばれ、石ころに書き付けられる経文は、多くの場合「法華経」で
江戸時代頃から各地に見られることが知られているのです。
よく見ると、法華塔の文字の周囲にさらに細かな文字が彫り込まれているようです。
年季や願文などが記されているようですが、カメラによる望遠スケッチでは、そこまででした。
こうした歴史資料の意味を深く探って行くには、「拓本」という手法を
あらかじめ用意して行かなくてはだめですね。
《補記:2024.4.21》画像リンクの再設定を行いました。