竹森玉諸神社境内の道祖神さん [いのり・信仰]
今回の話題は、神社の境内に祀られている道祖神さん。とくに竹森の玉諸神社境内の・・・。
この写真は、前々々々回の「竹森の玉諸神社」という記事で最初に使用したもの(再掲)です。
実は、この写真の手前の左手に、それが写っていたのです。
境内入ってすぐのところに見られた道祖神さん、ちょっとだけ細かに見ていきます。
こちらがその近景。
さらに近づいて上から見下ろし加減に・・・。
これも、石の造形・・・。
道祖神さんは、もともと街路の辻となるような道祖神場に祀られていました。
御維新の砌、神様を路傍に置くのはいかがなものか、しかるべく神社の境内に
移し奉りてご奉仕つかまるつるように・・・といったお達しが出て、
このように神社境内に移されたものが多くみられたようです。
再び路傍に返された道祖神さんもあるようですが、こちらではどうだったのでしょうか。
竹森玉諸神社境内の青面金剛さん [いのり・信仰]
前々回の記事で使用したもの、また登場です。
許容されている画像データ・キャパが余り多くないので、
一度使用した画像を何度の使い回しているのですが、お見苦しいかも知れません。
どうぞご理解ください。
さて、寺内正毅さん揮毫の忠魂碑の右手に、今回の話題はございます。
もうタイトルからして青面金剛さんのことだということではありますが・・・。
左手にちょこっと見えてる忠魂碑、右端には笠部を失った六地蔵石幢、その手前には
首を失った石仏さま、そして背後には石垣積み・・・まさに石の造形の世界ですね。
前回の記事でもふれた、石の加工技術に支えられての世界です。
それはともかく、中心にあります青面金剛石塔。
台座とか上部とか、本来の姿では無いかも知れませんが、青面金剛像はすてきです。
近づいてみて、あらためて優秀な彫刻だと感じました。
青面金剛像の下の三猿さんもみごとですね。
それから像の向かって左側面に年代の彫り込みが確認できまして、
「元禄十年」(1697)の作品のようだと理解されました。
竹森玉諸神社境内の蚕影山 [いのり・信仰]
前回の記事とまったく同じ写真ではじまりました。
甲州市塩山竹森の玉諸神社の随神門付近を見たものですが、
このうち右手の隅に見える忠魂碑が前回の記事の柱でしたね。
今回は、左手の蚕影山です。
神社の境内に、さまざまな神様が摂社や末社といった形で
いっしょに祀られることはよくあることで、蚕影山(こかげさん)も例外ではありません。
いつごろのものか、しっかりチェックしてきませんでした。
(忠魂碑に心が傾きすぎていたためですが)
おそらくこの地域、というか、山梨県下でおよそ広く共通することですが、
養蚕が盛んになり、蚕の守り神としての「蚕影山」をていねいにお祀りする時期は、
明治の後半から大正、昭和の初期くらいまででしょうか、これもその1つと考えられます。
今回、注目したいのは、石碑の作り方です。
碑面の、向かって右側の上部に矢穴が少なくとも3つみとめられます。
矢穴の形状から考えられる石造りの時期は、蚕影山の隆盛時期とほぼ重なるものといえそう・・・。
祈りの必要性とそれを満たす石造りの技術が重なり合ってもたらされた造形と考えられます。
リニアの近くで馬頭さん [いのり・信仰]
前回のリニア実験線工事を記録した場所にほど近く、
今回の馬頭観音さんは、その現場を眺めるかのようにたたずんでおられました。
雨の日も風の日も、来る日も来る日も、手を合わせ祈りを捧げておられます。
(合掌)
熊野堂の熊野神社(その3) [いのり・信仰]
笛吹市春日居町熊野堂にある熊野神社についての続々編です。
またこの写真は続編に使用したもの1枚の再掲です。
さて、神社の境内には、「蚕影山・子安神等」を祀るとありましたので、
境内をぐるっと見渡しますと・・・。
まずは蚕影山。
蚕影山は、このブログでは「こかげさん」と呼んでいますが、
先ほどの看板のふりがなでは「こかげ」でした。
いずれにしても、かつて盛んであった養蚕の守り神であり、
豊かな現金収入をもたらせてくれるカイコ(蚕;病気になりやすい)の成育が順調であること、
繭の、ひいては絹の収量が多くならんこと等について祈りを込めたものでありました。
側面に、「明治二十年 / 第九月祭祀建設」との彫り込みが認められました。
まだ養蚕技術が発展途上だった頃で、その一方で蚕がもたらす恩恵への期待値が大きく上昇した
そんな時期に建てられたものと受け止められます。
それから、子安神の方ですが、これかな???
道案内も担った馬頭さん [いのり・信仰]
頭上にかなりリアルなお馬さんをのせた馬頭観音さんです。
北杜市明野町浅尾の三島さんの前の交差点に安置されていました。
馬頭さんの足下の部分には、「右 ま、左 江草」(一部読めないところが・・・)
とあって、この馬頭観音の石碑は、道標も兼ねていることが理解されました。
とてもていねいに作られ、道標の役割も果たした馬頭観音さんでありました。
さるぼこまで・・・ [いのり・信仰]
赤いのなぁに? さるぼこ・・・だね!
北杜市明野町上神取地区で見た道祖神さんです。
そう、おやなぎさんの後の、輪になったのがいっぱい。
それはよく見かける光景だけど、ここではさるぼこもいっぱい。
うわっぁお、ハロキチのさるぼこまで・・・。
でもこんなんで、びっくりしてちゃいけない。
こうしたのでいっぱいきれいに飾られたこの地域の生おやなぎ、
それが紹介されたブログ記事見つけました。訪ねてみてください。
http://akeno-navi.net/?p=2929
輪になったおやなぎさんは・・・2012 [いのり・信仰]
おやなぎさんの名産地でした・・・南部町内船。
もう少し付け足していいますと、輪になって屋根の上にのぼったおやなぎさんの・・・です。
上と同じものですが、ちょっとクローズアップしています。
何を持って、名産地というか・・・。
今回は1つだけですが、名産地というからには理由があります。
それについては、次の記事をご参照ください。
http://bnvn05.269g.net/article/15264643.html
またおやなぎさんについて取り上げている記事のバックナンバーは、次のリストからどうぞ。
http://bnvn05.269g.net/article/16941474.html
西光寺境内の無縁さん [いのり・信仰]
西光寺さんの境内で見られた無縁さんです。
一対の「御霊前」と書かれた石燈籠を前に置いて、四角い範囲にまとめられていました。
「三界萬霊塔」とある新しい石碑が中央の最奥にあって、無縁さんとしては
なかなかていねいに処遇されているな、と思えるのでした。
その無縁さんをグルッと見渡して、このお地蔵さまに目がとまり、
写真に納めてお持ち帰りさせていただきました。でも・・・、
お地蔵さまの周囲をPCの画面上で観察しなおすと、そのお隣の墓石の方に
強い関心がスライドしてしまいました。
墓石の正面には「早世 秋露童子」と記されているのでした。
それから右側面には「元文四己未九月五日」とあるのが確認されました。
元文4年というと1739年。8代将軍吉宗さんの時代です。
その9月の初めに天に昇った幼子のために建てられた墓塔だと理解されるのでした。
秋露童子・・・、まだきちっと名前を与える前に早世したためでしょう。
秋の露のように逝ってしまった・・・。
切ない親の心が、270年余の歳月を超えて、しみだしてくるように感じられました。合掌。