南都屋根瓦ざんまい(3) [見てきたよ]
奈良・東大寺の大仏殿院の東側から、回廊と回廊越しの大仏殿を見ています。
今回は特に大仏殿の屋根を観察です。まずは大棟の端に燦然と輝く鴟尾に注目。
古代の貴人が履いたくつの形に似ているので沓形(くつがた)とも呼ばれるそうです。
続いて隅棟です。一の鬼と二の鬼が重なるように見えています。
一の鬼瓦の眉間の辺りにクローズアップです。鬼面の眉間には宝珠が表されています。
また目玉の上に表現される眉毛の筋の表現は、単なる筋ではなく、ヘラを細かく使った
押し引きによる施文になっていますが、中世以降の装飾瓦の細工によく見られる技法ですね。
一の鬼瓦の先につく隅丸瓦には、一文字ずつを丸で囲んだ「東大寺大仏殿」の6文字が
中心の梵字を囲むように配されています。
真ん中の梵字は「ア」で、これは一般的には大日如来を意味するものとされていますが、
東大寺の大仏さまは「毘盧遮那仏」、なぜ「ア」なんだろうと考えてしまいました。
調べてみると、大日さまも毘盧遮那さまもサンスクリットでは、ほぼ同じ語
となっているため、ここでは「ア」が毘盧遮那仏を意味していると考えられました。
ところで真ん中に見える隅丸瓦の背後左手ににゅっと小さな顔が出ていますが、
それって何でしょうね。ちょっとおサルさんに似ている・・・。
おそらくは、大仏殿の構造が大きいため、それに合わせて配置される隅丸瓦と
一の鬼瓦との間に開きがあって、雨仕舞が悪くなるのを防ぐために、留蓋のような
飾り瓦が乗っているのではないかとみられます。
こうしてじっくり見ると屋根瓦の世界、深いものがありますね。
軒平瓦と軒丸瓦の組み合わせによる大仏殿の屋根の軒先ですが、こちらでも
軒丸・軒平ともに「ア」を中央に据え、「東大寺大仏殿」の6文字が配されています。
南都屋根瓦ざんまい(2) [見てきたよ]
奈良・東大寺の南大門です。軽快な印象を与えてくれますが、構造がたいへん大きいため
屋根が軽く見えます。門の正面に「大華厳寺」の寺号が掲げられていますが、きっと
とても大きなものなのでしょうね。
南大門の大屋根の細部を観察しました。古代建築の屋根の部分名称がよくわからなかった
ので、ちょっとおさらいをしてみました。
南都屋根瓦ざんまい(1) [見てきたよ]
前回見た正倉院について、その屋根瓦に焦点を当てて見てみましょう。
まずは東大寺正倉の屋根の軒端を望遠しました。本瓦葺きの軒端の瓦は
軒平瓦と軒丸瓦の
組み合わせです。軒丸瓦には縦に「正倉院」の文字が、また軒平瓦には左から
「東大寺正倉院」の文字が表されています。
隅棟の先端を飾る鬼瓦や鳥衾瓦のようすです。
鬼瓦の下側の隅瓦には「東大寺」とあり、鬼瓦の上の鳥衾には「正倉院」の文字が
表されています。
正倉院の建物は、近くまでよって拝見することは許されませんが、こうして
望遠レンズ(正確に言うとP610の望遠撮影)を通じて、歴史の重みを十分に
堪能することができました。
しょうそういん [見てきたよ]
奈良・東大寺の広大な寺域の一角に「正倉院」があります。特別な領域として
塀がめぐらされ、普段は入ることができません。
奈良国立博物館で正倉院展が開催される期間中などに限り、一般に公開されます。
開かれた門から院内に進むアプローチをまっすぐ進みます。ワクワクしながら・・・。
アプローチ突き当りを左手にまわると、見えてきました。正倉院宝庫です。
とても天気が良くて、コントラストがきつく、肝心な校倉のようすがわかりません。
少し画像を補正してみました。向かって右側、北倉です。
正倉院というのは、古代において公的な機関の中におかれた保管施設である「正倉」を
塀などで囲みこんだエリアのことで、一般名称でした。
もともと二つの倉が並ぶものでしたが、官立寺院である東大寺の場合、
並び倉と呼ばれた北倉と南倉はやがて接続され、屋根は一つながりで長屋のように
なっていきました。北倉と南倉の間の閉鎖された空間は中倉となったのです。
この三つの倉からなる東大寺の正倉は、聖武天皇が亡くなられたのち、
光明皇后が聖武天皇遺愛の品々を東大寺に施入し、もっぱらそうした遺品を納めてきた
ことから、勅封の宝庫となっていったのです。
毎年、秋に、文化の日を中心に行われる正倉院展は、勅により正倉の封を解き、
風を入れて宝物の保存の全くを期す行事にあわせて、選りすぐりの宝物を何点か
奈良国立博物館で公開しているものなんだそうです。
正倉院展見たら、こちらの正倉院もあわせ見たいと思って、がんばって見てこれて
とてもよかったです。
コンクリート製フェンスのカットモデル [見てきたよ]
甲府市の中心部で街歩きをしていたときのこと、少し古い雰囲気の施設の外構に
目を惹かれました。
コンクリート造りのフェンスが取り巻いていて、表面が古風な洗い出し技法で
仕上げられていたのですが、隅のほうまで追いかけていくと、先のほうで
何らかの理由でカットされている状況を目にしました。
工事用のカッターでブッツリとカットされていて、骨材の入り方や表面の仕上げ方が
観察できて、とてもラッキーな気持ちになりました。
画面のほぼ中央にある横筋も、しっかりカットされています。
はたらくのりもの AS332L1 [見てきたよ]
文化の日の今日、晴れの特異日に期待して、再び御中道にチャレンジしました。
前回はお仕事としてで、今日は完全なオフの日のプライベート・トレッキング。
車を降りて御中道に入るといきなりヘリコプターの爆音が響き渡るのを耳にしました。
今日は、天気はさほどよくないと思っていたけど、ヘリの運航には問題がなかったようです。
コンクリートの入ったバケットを吊り下げて、仮設ヘリポートから現場までピストン輸送するヘリ、
登録番号がJA6717のアエロスパシアル社製の大型の回転翼機AS332L1でありました。
なお、フランスのアエロスパシアル社は、現在、ユーロコプターとなっているそうです。
この機を運航するのは中日本航空(株)で、目下、富士山は大沢で進められている工事において
チャーターされているようです。
こちらが御中道の展望が開けたポイントから見た、工事用の仮設ヘリポートで
ホバリングしているヘリは、コンクリートバケットの付け替えをしているところのようでした。
ヘリから吊り下げられたバケットの右手、少し離れたところに、
黄色く塗装されたバックホーも見られます。
御中道を歩いているときに見たコンクリート搬送中のヘリです。
そして空になったバケットが後方になびかせて仮設ヘリポートに戻るへり。
何度も何度もこうした往復を繰り返していました。
ナショナルホリデーなのに、とっても働き者、ほめてあげたいと思いました。
工事現場までは立入が許されないのですが、木々の隙間をとおして、
現場でホバリングしながら、コンクリートバケットの底を解放して
コンクリート打設をしているのだろうな、という状況が見られました。
「はたらくのりもの」は、これまでに何度か取り上げていますが、
主なものとして、次にあげる記事があります。よろしければ。ご参照ください。
「はたらくのりもの」2008年12月31日・・・陸自のCH-47J
「はたらくのりもの 470H」2013年01月29日・・・大型パワーショベル
「はたらくのりもの HM300」2013年10月07日・・・アーティキュレート・ダンプ
うつくしきものみつ [見てきたよ]
前回の場所で見られる富士山、特に冬至から元旦にかけての間、
ダイヤモンド富士が見られることで有名だと知りました。
そのことを記した標識が建っていました。
そして、その反対方向には、何々・・・。
「高村光太郎文学碑」とありました。
これです。
「うつくしいものみつ」(美しいもの見つ)とありました。
文学碑の建設に至る経緯は、これによって知られます。
高下からの眺め [見てきたよ]
富士川町の上高下(かみ・たかおり)。
集落の少し上に、富士山の展望地としてここを訪れる来訪者のための駐車場が
整備されていますが、この辺りで標高約640mです。
先日訪れたときは、少し遠くが霞んでいました。
条件がよければ、ここから雄大な富士の眺めが楽しめるそうです。
画面手前に、小さな碑が置かれていますが、そこに何やらプレートが・・・。
関東の富士見100景・・・の1つがここだという、認証プレートでした。
目をこらすと、富士山の姿が何とか確認できました。
それから、手前の木の梢には、さえずる野鳥の姿が・・・ホオジロですね。
元日の米倉山で2013・・・その2;小平沢古墳 [見てきたよ]
エートマンの元日恒例イベント、米倉山にのぼってのスケッチです。
その1は、前回のタンポポのお花で、だからこれが<その2>となります。
で、今回のテーマは、小平沢古墳。
本県最古、というかただ一つの前方後方墳とされていますが、無指定。
よく知られていますが、雑木林のなかにある現地はあまり知られてはいません。
こちらは2010年の元日に、ほぼ同じ角度で撮影したものです。
この時は、少し雲が出ていたりして、雰囲気がちょっと違っています。
なお最初の、今日の写真は、6カットほどの画像をArcSoftのパノラマメーカーで合成したものです。
あるイタリアンレストラン閉店後のその場所は・・・ [見てきたよ]
そうそう、ここでしたねぇー。
この2月末までは、全国展開のイタリアンレストランがあったところ。
その閉店後の状況を知りたくて、先日、近くまで寄るついでがあったので、
その場所を眺めてみました。
写真のほぼ真ん中に電柱が映り込んでしまいましたが、意図的です。
その電柱に付けられて広告付きの地名看板です。
「響が丘」 そうそう、ここは甲斐市龍地の響が丘とよばれる新興の
居住プラス商業地域の一角です。
で、結論ですが、あのカプリチョーザ響が丘店だったところは、
いまは、このような内容のお店になっていました。
そうそう、あのサンルーム越しに、送電線鉄塔を見ながら、最後のイタリアンを
味わっていたのでしたっけ。
なお、この記事には、次の親記事が存在します。
合わせてご参照ください。
「バイバイ、カプリチョーザ(山梨最後の・・・)」2010年2月23日