花に埋もれた古民家 [地域の小さな歴史]
笛吹市御坂町の大野寺地区で見かけた古民家です。
切り妻屋根の民家で、銀色に塗装した鉄板葺きとなっていますが、
オリジナルの姿は茅葺きだったのでは・・・と想像されます。
もう少し広く見ました。
とても賑やかな周囲、黄色は菜の花、ピンクは桃の花。
ちょっと贅沢な景観です。
また別な同地区の古民家ですが、同じ切り妻でも棟がシンプルになっています。
こちらは、もっぱら桃の花に埋もれていました。
甲府城跡における明治天皇御製碑 [地域の小さな歴史]
とある歴史的建造物- 甲府法人会館 [地域の小さな歴史]
今日は、ちょっとばかり陽気がよくなってきたので、お昼にお散歩。
町歩きしていて、ふと歴史的なにおいプンプンの建物にお目にかかりました。
その名も「甲府法人会館」
下から上まで4カットの写真を専用ソフトでつなげてみたら、
超広角撮影みたいになりました。
この建物は、その昔は、甲府商工会議所の建物だった気がします。
そしていまは、国の登録有形文化財となっているそうです。
(少しずつ春めいてきています。1月末の人間ドックで「メタボ宣言」を受けてよりこの方
極力歩くように努めていますが、寄る年波と押し寄せるストレスにはなかなか勝てません。)
《追記》画像リンクおよび記事タイトルの調整をしました。2018年1月5日
地域の歴史を映す古民家 [地域の小さな歴史]
前回の記事の写真を再掲しました。
今回のテーマは、この画面の少し手前の方にあります。というか、ありました。
というのも、ねらって撮影したのではなく、たまたま写っていたというしろもの、それは・・・。
切妻屋根の古民家です。
はくさんだいら [地域の小さな歴史]
国宝の本堂(薬師堂)を有する真言宗の古刹、大善寺さんの遠望、再びです。
(一昨日の記事「笹子TN事故発生・中央自動車道通行止め」で使用した写真を再掲)
この大善寺さんから東方にあって、大善寺の歴史にゆかりがある遺跡があります。
それがこの画面の中央に見えている白山平という場所。
西の方向に開けた、西方浄土を夢見る聖地であり、今流にいえばパワースポットと・・・。
白山平の上方に、東電・笛駒線の鉄塔が見えていて、その足元付近から
水力発電用の送水管が伝わっています。
平安の昔よりずっと夢見てきた聖地は、この送水管の設置工事で、現代の世に覚醒されました。
それが「白山平経塚」です。
ある古レールの話・・・鉄の記念日に [地域の小さな歴史]
まず、「鉄の記念日」についてです。
時々に課題があって便利させていただいている『こよみのページ』の
「今日は何の日?」コーナーによりますと、12月1日は「鉄の記念日」なのだそうです。
これは、1857年のこの日、鉄のまち釜石で、初めて洋式高炉に火がともったことにちなみ、
1958(昭和33)年に日本鉄鋼連盟が、この記念日を定めたのだそうです。
次に今回のテーマである、ある古レールのことです。
先月に行われた笛吹市一宮町末木に所在する真言宗の古刹、金剛山慈眼寺で 重要文化財建造物の修復現場の公開に参加した際、目にしたものでした。
この古レールが、重要文化財の修復工事とどのように関係していたかは、後にふれることにして
古レールについて、気になったこと、わかったことを書き留めます。
レールには、最近のものもそうですが、形状規格の情報や製造会社、製造年などが
陽刻という形で記されています。
今回見る古レールの場合は、次のとおり記されていました。
H-W-60LBS-ASCE-XI-1925
それで、この情報を読み解くと、はじめのH-Wがフランスのウェンデル社という
製鉄会社名を表しているそうです。
そして続く60LBSは、1ヤード当たり60ポンドという重量規格を示し、
ASCEはレールの断面形状の規格を、XI-1925は1925年11月という製造年月を
それぞれ示していたのです。
この時期、国産のレールも生産されていて、1927年ごろまでは、外国産と国内産が拮抗し、
その後は国産のレールが主流になっていくらしいのです。
重要文化財の保存修理現場で、第二のお仕事として働いていた古レールは、
1925年(大正14)製造のものでありました。
ちなみに、この年の5月に普通選挙法が成立しています。
もっとも厳密に普通選挙法というのはなく、5月5日に公布された
改正衆議院議員選挙法のことを指しているのだそうです。
この国の進むべきレールは、これからどちらに向かうのか。
その衆議院議員選挙が、まもなく告示になろうとしていることを蛇足として
古レールのお話を一区切りとします。
古戦場跡の石碑はいつ? [地域の小さな歴史]
今日(2012年10月6日)、見てきた飯田河原古戦場慰霊碑です。
実はこの石碑は、2008年1月28日にも見学に行っています。
この碑について、先日、「いつ建てられたのか」と問いかけられたことがありました。
もちろん、近くに住んでおられる方ならすぐ現物を見られればいいのですが、
ちょっと遠くの、なかなかそうはいかないお方のご質問でした。
内心、ふふん、見たことあるので、すぐにわかるかも・・・と、
その日のうちに、HDDに保存されていた写真をひっくり返してみたのですが、
何と、この写真に見る、正面観しか撮影していなかったのです。
石碑は裏面や側面にも重要な情報がある場合があるので、そういうところのチェックは欠かせないのですが、
どうやらその時点では、深く関心が向かなかったようです。
「忍村」について [地域の小さな歴史]
「忍村」について調べてみました。
忍村と書いて「しのぶむら」と読みます。けっして忍者の里なんかではありません。
それは、明治8年から同22年までの間、巨摩郡(明治11年からは中巨摩郡)の村名であり、
明治22年から昭和16年までの間、中巨摩郡の自治体の1つでありました。
大和田・藤巻・馬籠・今福・今福新田の5つの大字を編成していました。
富士川の2大支流の笛吹川と釜無川に挟まれた地域で、「常襲水難の地」と評されるほどでした。
南側を流れる笛吹川には、渡船があり、
後に(明治の末年に)桃林橋が架橋されるまで続いていました。
渡しがあった頃、村には河岸場税が徴収されていた、との記録もあったそうです。
昭和16年、田富町の一部となり、現在は中央市の西南端の地となっています。
以上の記述は、多く『角川日本地名大辞典 19 山梨県』の記事に拠っています。
写真は、中央市藤巻の永正寺境内にある忠魂碑の裏面の銘文の一部です。
「忍村」・・・少しも知りませんでした。この碑文にであうまでは。
山梨における増上寺から移出した石灯籠について(リスト) [地域の小さな歴史]
徳川将軍家の菩提寺、東京・芝の増上寺から、戦後に事情あって
いくつもの石灯籠があちこちに移出しています。
山梨県内にもいくつか来ていますが、それについてこのブログ
『えーと 何だっけ?!』でも、らんだむに、観察記録しています。
ここで、そう多くないですが、それらについて「目次」化しておきます。
(写真は、2011年9月3日に見た、笛吹市八代町竹居の浄源寺境内のもの)
所 在 地 員数 被奉献者 記事掲載日(記事リンク)
笛吹市八代町竹居・浄源寺 2基 文昭院 2011年9月9日
笛吹市一宮町末木・慈眼寺 2基 文昭院・有章院 2007年8月14日
笛吹市八代町岡・善国寺 2基 惇信院 2007年5月6日
実は「甲府宰相」 [地域の小さな歴史]
文昭院殿について、少し追記しておきたいことがあります。
文昭院殿、すなわち徳川家宣第6代将軍は、甲府藩主綱重さまのご子息であらせられたのです。
御年17歳のとき、父君が逝去され、家督を継ぎ、甲府藩主すなわち「甲府宰相」となられます。
第5代将軍の徳川綱吉さまがお世継ぎに恵まれなかったため、宝永6年(1709)に
綱吉さまが亡くなられると、第6代将軍の座につき、これにより甲府家は断絶となっています。
こんなふうに、文昭院さまというお方は、生前、甲府とは浅からぬ縁(えにし)
があったということ、このことをメモしておくのでございます。
なお、今回の記事の写真は、前回の記事の2つ目の写真の再掲でございました。