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快楽居士(あるいは勝蔵さん) [エートマン・モードの人物館]

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 笛吹市御坂町上黒駒の称願寺さんの境内、鐘楼の西隣に、
そう古くはない、大小3基の、江戸時代風の墓塔を見つけました。
中心のものが大きく、左右のは、水戸のご老公に寄り添う輔さんと格さんみたいな感じ。
 どんな意味があるのかしら、こんな場所に。
そう思いつつ、じっくり拝見すると、何とビックリ・・・。
 幕末の甲斐の国を代表する侠客、黒駒の勝蔵親分ですが、
近年、その頃の侠客と一括りされる人たちの中にも、わが国の近代化の中で、
見過ごすことのできない役割を果たしているものがあるという流れで、
再評価が進んでいるようです。
 なお、左右にお控えの方々については、不勉強でまだよくわかりません。

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 真ん中におわす勝蔵さんですが、右側面には、
  「松岳院安阿快楽居士 / 明治四年十月十四日 俗名勝蔵四十二歳」
とありました。
快楽居士の前の「安阿」は時宗特有の戒名かと思われます。

《付記》
 幕末のそうした面々について、ご維新後の経過も含め、いろいろな取り上げがなされてきています。
ちょっとだけ思い出せるのを列記すれば・・・。

・2004年3月16日から6月6日まで国立歴史民俗博物館で開催された次の展示会。
 「民衆文化とつくられたヒーローたち -アウトローの幕末維新史-
・岩波書店の雑誌『図書』(月刊)に掲載された次の2つの記事
  高橋 敏「山岡鉄舟・清水次郎長往復書簡」『図書』第731号(2010年1月刊)
  高橋 敏「新出の鉄舟宛次郎長書簡」『図書』第737号(2010年7月刊)
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はきい・さねなが さん [エートマン・モードの人物館]

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 横顔がすてきなお方、波木井六郎実長さんです。

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 正面から見て、とてもハンサムなお方でございます。
このお方、どのようなお方か、既にご存知のお方は、
山梨の歴史に相当お詳しいか、敬虔な法華宗信者のお方かのいずれかでありましょう。

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 実は、この波木井さん、身延町波木井にある日蓮宗の名刹、
波木井山円実寺の門前におわしました。
お座りになっておられる基壇に「当山開基」として御名が記されていました。
そうです、波木井さんは、波木井の地を領していたえらい方で、
この円実寺をお開きになったお方です。
法名を法寂院日円とされ、円実寺は、日円さんの「円」と
俗名の実長さんの「実」をつなげ、お寺の名とされているようにお見受けされます。
 この波木井実長さんについては、本日のところは、これくらいにさせていただきまして
また機会を見て、もう少し細かなプロフィール紹介をいたしたく存じます。


(注記)画像リンク修正:2020年3月11日

天野久さんの能筆の跡(1) [エートマン・モードの人物館]

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 それは、ソメイヨシノが、きれいに咲いていた頃・・・。

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 新御坂トンネルの河口湖側の坑口を見ることがありました。

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 トンネル・ファサードに掲げられた題額の文字が
とても気になりました。
「新御坂隧道」
どっしりとした、個性的な筆遣い・・・。
いったいどなたの書になるのでしょうか。

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 上の写真の署名の部分を切り出してみました。
で、読み取れた文字は、「山梨県知事 / 天野久 / 書」でありました。

 天野久さんについては、このブログのカテゴリー「人物館」のなかで、
そのブロンズ胸像を主に紹介していますが、
あちこちに伝わっている、りっぱな墨跡もひろってみようかと思います。

あさり・よいち [エートマン・モードの人物館]

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 弓を引く若武者の像を見ました。
どういうお方だと思われますか。

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 今度は、やや正面から・・・。
何とも凛々しいお方。

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 こちらが全身像と、その置かれている環境です。
そのお方の名は、浅利与一義成さま。
源平対峙の昔、弓の名手と謳われたその人で、
小舟から的を射きる故事に則った銅像となっています。
 中央市大鳥居の「シルクの里」公園の中に、
その像は、設置されています。
 画面の中の銅像の背後にある白い並び丘は、蚕の繭をかたどった遊具です。
あいにくの曇り空で、さえない光景の写真となりましたが、
色付く木々の美しさの中で、その凛々しいお方のおられる環境が
いくらかでもご理解いただければと思います。

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 像のそばに、浅利与一の人となりを解説する説明板がありました。
説明文にもあるように、周辺には、与一ゆかりの大福寺や
県指定文化財となっている層塔なども存在しています。

中村先生の頌徳碑のこと [エートマン・モードの人物館]

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 昨日(3/19)、墓参に出かけ、足を伸ばして昇仙峡にいきました。
それで、途中、運転中の視野の中に「中村幸雄」の文字が飛び込んできました。
この写真の中程です。

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 行き過ぎて、長瀞橋近くの市営駐車場に車を止め、
歩いて後戻りし、細かく確認してきました。
やはり、あの中村幸雄先生の頌徳碑でした。

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 もっとも、お名前だけしか存知あげなかったのですが、
この日でお姿や細かなお仕事のようすがわかり、
うれしい想いがしました。
 あの中村幸雄先生のこと、知りたい方は、
このブログのどこかに書いてありますので、捜してみてください。
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かいちろうさん [エートマン・モードの人物館]

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 このところ山梨市万力の万力公園周辺で拾った話題を続けています。

 万力公園といえば、やはりこの方にご登場願わなければ・・・
ということで、根津嘉一郎さんの銅像です。

 この根津嘉一郎さんという方は、どういう方かというと、
万延元年(1860)に、この万力公園の近くの
山梨市の正徳寺というところで生まれました。
明治から昭和前期にかけての実業家であり、政治家であり、
また根津美術館にその名を残すように文化人でもありました。
後に甲州財閥の一人として顕彰され、
生前の昭和7年にこの銅像が建てられたそうです。

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 もう少し近づいてみました。

 この銅像は、後に第二次大戦下に、供出され、
長らく台座のみとなってしまっていたらしいのですが、
昭和35年に再建され、現在に至っています。

 以前、この銅像を見た時には、どうも周囲の景観との調和という点で、
少し浮き上がった存在かな、と思っていましたが、
このほど、あらためて拝見しますと、この地と切っても切れないもの
と自然に受け止められるようになっていました。
 その理由は、何だろうか・・・

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しろう・・・ [エートマン・モードの人物館]

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 ぼくは、四郎だよ。一家の代表は、ふつう「太郎」だって。
いったいどうなってんだぁ~。

 武田の最後の棟梁、になってしまった。
悲運の武将の物語のはじまりが、あの「風林火山」のドラマの
中核をなしているんですね。
 諏訪のお姫様、名前は伝わっていないこと、
それじゃ困るからって、小説を書く人が、それぞれの想いで
それぞれに名前を付けているだってこと、前にも書いたような気がしますが・・・
とにかく名が不詳なので、歴史家は、一般に諏訪御料人としていますが、
その諏訪夫人から生まれたのが、この勝頼さんで、諏訪の名跡を嗣いだのですが・・・

 まあ、歴史を具体的にイメージするのは、たいへん難しけど
ここんところの写真のような具体的なイメージを見て歩くと
なんとなく、分かったような気に・・・・
でも、正しく理解するために、もっとよく勉強しましょ!
知ろう武田の歴史! ・・・みたいに、
いま、いっぱい、本が出版されているので、学びやすいですよ。

 でも、難しい歴史の本、読んでるとなぜかすぐ眠くなってねぇ、
というかたは、ときどき、この「えーと何だっけ?!」を見て
やさしい歴史のお勉強をいっしょにしましょうね。

            (撮影:2006.12.2 甲州市大和町・甲斐大和駅周辺で)


《補記:2024.4.15》画像リンクの再設定を行いました。

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わしも・・・ [エートマン・モードの人物館]

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 武田の太郎さまって、てっきり儂のことかと思って出て参ったぞ。
くるうしゅうない、くるしゅうない・・・

 って、登場しました。武田晴信、入道して、機山公信玄さまです。

 今日の朝刊に、この甲府駅南口に鎮座の信玄像ですが、
年末恒例の御身拭いが、昨日(12/19)にあったと写真入りで出ていました。
高さ3m、重量にして5トンのこのブロンズ像、市の職員の方々が
1時間ほどかけて、一年のほこりや汚れを落とし、新年を迎える準備としたとか。

 年が明けると、大河ドラマ「風林火山」の放映も始まり、
甲府は、信玄さまや、勘ちゃんにあやかって、とてもにぎやかになりそう。
ああ、もう10日ほどで、年越しになるのか、・・・早いなぁ~。

                       (撮影:2005.11.10)


《補記:2024.4.15》画像リンクの再設定を行いました。

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たけだの・・・ [エートマン・モードの人物館]

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 こちらにおわすは、どなたと心得るっ?! 太郎さまなるぞ!!!

 “あっ、そう”なんていってはいけません。
さらに説明を付け加えれば、武田の太郎、信義さまですぞ!
韮崎市役所の前庭に、鎮座ましますのですぞ。
 武田の信義さまとは、鎌倉時代前期の、甲斐源氏を代表した武将で、
有名な富士川の戦いなどで活躍し、幕府成立に功績があった御仁です。
晩年は、子の一条忠頼が謀反のかどで粛正されるなど、不運な面もありましたが、
やはり、おらがふるさとの英雄の一人です。
                       (撮影:2006.12.16)


《補記:2024.4.15》画像リンクの再設定を行いました。

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まごべえ・・・ [エートマン・モードの人物館]

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 またまた西高橋町にての話題です。
 付近を散策中、こんな場所に出くわしました。

写真手前の小さな公園のような一角のことです。
右端に寄ったところから、文字がうすくてほとんど読み取りにくい顕彰碑、
それから小さな祠、六地蔵石碑が2つと、
その向こうに火袋を失った六地蔵石幢などが置かれ、
加えて説明板が設置されていました。 

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 説明板の内容をそのままに読んでみましょう。


    桜井孫兵衛政能の濁川改修について(顕彰碑)  江戸時代中期頃までの濁川は蓬沢村の東を流れ、西高橋村の南で笛吹川に合流することから、少しの増水でも濁川の通水が悪くなり、川沿い九ヵ村は濁川の氾濫による水害が絶えなかった。中でも蓬沢と西高橋の両村は田畑の過半数が、沼地に変わるほどの惨状で苦しんでいた。  1694年、代官として来甲した桜井孫兵衛政能は、その窮状を知り濁川の改修を決意、土木工事に才たけた山口官兵衛(素堂)の協力を得て、1696年、工事を行ないそれによって長年の水害から解放され、多くの土地が耕地としてよみがえった。  被害の著しかった蓬沢・西高橋両村では、桜井孫兵衛政能の治水成功に対する感謝と、今後の水防の安全を祈って、この地に祠を建て今日まで地域住民に敬愛されてきました。  このたび埋立処分地整備事業に伴い、石碑をここに移転したものであります。                      2003年3月吉日

 とのことで、近年、付近から移転、整備された
水害の歴史にかかる石造物の保存のための
小公園だとわかりました。

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 こちらは、西高橋町付近を流れる濁川(にごりがわ)です。
左岸の堤防上から、上流方向を見たもので、
中景の堤防の向こうに見える空色がかった屋根の建物は、
大雨などの出水の際、西高橋町側からの水を排水するポンプ場です。

 先ほどの、説明板のことをもう少し確認したくて
『角川地名大辞典19 山梨県』の「濁川」の項を引いてみました。
状況がもっとよく理解できるものなので、関係の記述を引用します。


 貞享~元禄年間の頃、笛吹川の河床が高まり、当河川との合流点がふさがり、雨季になると逆流氾濫して沿岸9村、数十町歩に余る田畑が湖沼と化したという。徳川綱豊領国時代の代官桜井孫兵衛政能は治水の工を計画し、元禄9年3月工を起こし、山口官兵衛信章の協力を得て、西高橋から南方笛吹川の堤防に沿って、増坪・上村・西油川・落合・小曲・西下条の村境に至るまで新たに渠道を通じ、土堤2,150間余を築き、当河川を導き、停水を排して田畑をことごとく旧に復した。住民はその徳をたたえ、蓬沢の庄塚に桜井明神・山口霊神の生祠をたてて祀った。


 この記述中の、「笛吹川」とは、現在の平等川を指し、
また「当河川」とは、濁川のことを意味しています。

 桜井孫兵衛のことは、この地を訪ねるまでは、ほとんど知りませんでした。
山口官兵衛の方は、官兵衛というより、山口素堂の名でよく知られています。

 あらためてウィキペデアで確認すると、次のような人となりがあらためてわかりました。

山口素堂(やまぐち そどう)は、江戸時代前期の俳人・治水家。
本名は信章。通称勘兵衛。
生没は、寛永19年(1642年) - 享保元年8月15日(1716年9月30日)
生れは甲斐国で、家業は甲府魚町の酒造家。
20歳頃で家業の酒造業を弟に譲り、江戸に出て漢学を学び、
さらに俳諧の道に進む。
また治水にも手腕を発揮した。 

 たいへん、長いお話となりましたが、
「まごべえ・・・」というタイトルの割には、
桜井孫兵衛のことはさておき・・・という感じになりました。
また機会があれば、彼のことも、もっと深く知ることが出来るでしょう。

 さても、じっくり歩いてみることで、付近の歴史がずっと心にしみこんできました。
ほんとに、時間をかけて歩いてみると、いろいろなものが見つかります・・・ね!
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