くろちゃんを知っていますか? [エートマンのウェブメモ]
うわぁ、な、なっ、なんだぁ~、これっ。ビィックリするじゃん。
(まだ、悪夢にうなされているのかしら、いや、そうでもないみたい・・・)
実は先ほどビックリしたのは、甲府城跡にすむ妖精のくろちゃんなんだ。
暗いところから現れたお化けみたいな写真になったけど、それは舞鶴城公園内にある
稲荷櫓の中で、明日(2011年8月31日)までの会期で開催されている特別展
「ひらけ! 玉手箱」のことをお知らせしようと撮影した中から、
妖精・くろちゃんを取り出してみたしだい・・・だったのです。
よく見ると、あそこにも。
別バージョン(というか別表情)の くろちゃんでした。
くろちゃんについて、もっと知りたいという方は、次のブログをどうぞ。
『くろちゃんの甲府城つづり』(http://blog.goo.ne.jp/koufujyou)
いちむぁ~い、にぃむぁ~い・・・・ [季節の話題]
前回のこぉわぁーい・・・感じのする明かり取り窓がある復元された戦国の建物。
その昔の建物の再現の場所の近くで、中から涼やかな、そしてまた恨めしげな声がしてきそう・・・。
そんな昔の井戸、でした。
おもいきりのバテバテ [エートマンの日記]
何度もなんども、こわい夢を見ました。
そしてうなされているなぁと思いながら、目ざめ、ぐっしょりの汗を拭う・・・。
そんなことを何度繰り返したでしょうか。
8月の下旬に、高い熱に体力を奪われ、もうへとへと・・・。
写真ですか? 夢の中の一シーン?
目を光らせたこわいロボットが闇の中からやって来る・・・?
・・・ではありません。
ある史跡公園の中に復元された戦国時代の建物の採光窓でありました。
でも、悪夢のイメージを現しています。
何とも中身のないところとなりました。でもこういうときもあるのです。
生身・・・だから。
こんなのも・・・2011 [鉄道・電気機関車]
JR中央線の石和温泉駅でのスケッチです。
1番線(下り線)ホームを観察中。視点はホームの屋根とそれを支える柱。
その1番線から、向こう側、2番線ホームを見ています。
というか、オーバーブリッジ式の連絡路の2番線への降り口を見ているのですが。
さらに、連絡路のオーバーブリッジ部分。
上下2本の線路を越えて、上り線ホームと下り線ホームを連絡しています。
それでさらに連絡橋の下り線側の階段下から、構造のようすを見ています。
画面中央の下側に入口ドアが見えてまして、その上にちょっと注目・・・。
それがこちら。
「建物財産標 / 鉄 / 倉庫 3号 / 昭和40年3月30日」と4段分の情報を拾ってみました。
あれっ、こんなのも、いつか見たことありましたね。それもこの石和温泉駅で・・・。
この日、上京する課題がありまして、なぜか、この石和温泉駅から上りの
かいじ号に乗ることになっていたのですが、少々時間がありましたので、
レトロな駅の構造を楽しんだということであります。
以前に取り上げた、この駅の別の場所で見た「建物財産標」は、昭和11年のものでしたが、
ともかくとして昭和という時代に、この駅の構造がなされたのですが、
構造材には、古レール、すなわち磨り減って新しいものに取り替えられるという運命をたどった
廃棄レールが、切断されたり、溶接ないしはボルト止めされ、それによってホームの屋根や
連絡橋が造られているのでありました。
もっとも石和温泉駅のすべてで、ということではなく、連絡橋の周辺、
この写真で、破線で示したような部分についてではありますが。
あっ、写真が前後しますが、初めから撮影していたのは1番線ホーム側。
で、上りのあずさ号を利用するには2番線ホームに行かねばならぬので、
連絡橋を渡ります。
1番線ホーム側からトコトコと階段を上り、ほぼ登り切ったところで振り返ってください。
そこには・・・・・。
こんなのも、見られます。
ドイツのライン製鋼所(Rheinische Stahlwerke 略号R.S.W)で、1926年に製造された
ことを示す陽刻があるのです。
実に歴史を感じ、思わずウットリです。
みなさん、どうぞ石和温泉駅を利用しましょう、出来る限り時間に余裕を持って。
そしてこうしたお楽しみを探してみましょう。
それでは、出発です・・・(かなりウットリしながら書いているので、時間の流れが乱れてます)。
前回の「こんなのも・・・」については、次のとおりです。
2006年08月07日 こんなのも・・・
追伸: 他にもいっぱい年代や製造所の情報が見られるのですが、
ペイントが厚くなってしまっていて、なかなか判読しにくくなっています。
追伸その2: 夏休みの自由研究などで、あちこちの駅の古レールのこと
調べたいお友達には、次のWEBサイトが参考になるのでご案内します。
「古レールのページ」 (http://homepage1.nifty.com/arashi/)
石和花火2011 [エートマンの日記]
8月21日は何の日?
答えとしていろいろあるのかも知れません。
いつもお世話になっている「こよみのページ」には、献血記念日とか噴水の日とかいうのがありました。
甲府盆地に住んでいる人や、根っからのファンの人には「石和花火」が上げられるでしょう。
そう、正確には 第47回石和温泉花火大会、というようですが。
そんな8月21日は、朝からぐずついた空模様。
涼しくていいのですが、花火師さんはたいへんだったことと思います。
またそんな天候のためか涼しくて、見ている方に、やや気力に欠ける感がありました。
雲が低く垂れ込め、風もほとんど無く、打ち上げられた花火から発生したガスが滞留し・・・、
大輪の花火の一部を隠してしまう傾向も見られました。
でも、こうして回を重ねる花火大会、例年のように開催され、
よそはともかく、当地は平穏、穏やかでありました。
今回の見物のポイントは、これまでの場所とはだいぶ違っていて、
花火との間に、送電線が横切っていまして、これは東電の御坂線でありました。
これまでの関連記事
2011.08.20 明日は8月21日、石和花火の日
2009.08.21 石和花火2009
2008.08.21 石和花火2008
2007.08.21 石和花火大会・・・
再び、あの分校跡に関して [地域の小さな歴史]
行く夏を惜しみつつ、あの十谷分校の歴史についての続編をのこします。
またまた再掲写真で恐縮ですが
(現在300mbのデータ許容容量が271mbまで消費しているので、同じ写真を何度も使い回してます)
「五開小学校十谷分校閉校記念」の石碑に戻りました。
明治8年(1875)に、地域の皆さんの情熱により創立された十谷学校ですが、
昭和21年(1946)に五開村立五開小学校の十谷分校の位置づけをもって
戦後の民主教育の軌道に乗ることとなりました。
昭和30年、五開村は「昭和の大合併」により新・鰍沢町となり、これにより
五開村立から鰍沢町立の五開小の分校に名称が変わりました。
やがて昭和56年、児童減少により(?)、分校は廃され、地域の子らは本校である
鰍沢町立五開小学校に通うことになったようであります。
歴史は流れ、「平成の大合併」の最終段階で、平成22年3月8日、
鰍沢町は隣接の増穂町と合併し富士川町となり、あの十谷学校の流れを引き継いだ
五開小学校は、富士川町立五開小学校となったですが、それもつかの間、
その3月末をもって、富士川町立鰍沢中部小学校に吸収されていったのでありまして、
十谷分校から見て本校だった五開小学校も、もはや廃校の身となっているのであります。
明治の初めの、たとえ山の上にあっても地域の子どもにしっかりとした教育を・・・の熱い想いは、
時代と共にこのように移り変わってきたのでありました。
「あの分校」とは・・・。次の記事も合わせてご覧ください。
2011.07.29 分校の跡
2011.07.30 続・分校の跡
2011.08.03 もう一度、分校の跡
今回の内容に関係する参考記事
町内小中学校のホームページへのリンク集(富士川町公式HP)
廃校跡を訪ねて(南巨摩・西八代)
「富士川悠遊地典」内の富士川町立五開小学校
メガソーラー@こめぐらやま(1) [送電線と鉄塔&発電所・変電所]
お盆の14日の夕刻、米倉山に登りました。
一面に広がる太陽光発電パネル、それは少し前にも取り上げていますが、
パネルの海の岸辺に、鉄塔が建てられていました。
(そういえば、このことについては、この前、北星さんからコメントいただいています)
とりあえず、一報まで。
(えっ? もう何日も経っているのに一報だけ? 一方的ですね・・・陰の声)
かいじの車窓から [エートマンのお出かけメモ]
今日は所要あってお上りしました。
上りのかいじの車窓から見た光景のひとこま、葛野川線の赤白鉄塔です。
携帯カメラの写真です(切り出しなどの補正がうまくできませんでした)。
みさか75 [送電線と鉄塔&発電所・変電所]
今日見た送電線鉄塔で、東電の御坂線の75号鉄塔です。
甲府市東部寄りの田園地帯に建っています。
今日もとても暑い日でありました。
送電線鉄塔も全部が鋼鉄で出来ているので、こうした夏の暑い盛りには、
だいぶ伸びて、背の高さも大きくなるのかしら・・・。
そんなことを考えながら見つめていたのです。
御坂線は、三相が左右で2回線。ここでは、懸垂型で中継されています。
最上部には小さめの腕金が左右に付き、それが支えるところは、架空地線です。
それも吊り下げで中継されています。
またその架空地線用の腕金には対空用のナンバープレートが付いています。
それにより75号と確認したのであります。