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ある記念碑について [忠魂碑の類]

070529hachimanjinja.jpg

 先日(5/29)、笛吹市八代町岡の八幡神社を再訪しました。

070529hibun01zenkei.jpg

 再訪して、とくに気にしたのが、この記念碑についてでした。
前回の訪問の時、この石碑については、存在を知るという程度でした。
ただ、碑文の中に、「大山巌」の名前があったことだけは、頭の中に残っていて
それが急に、気になったからです。

070529hibun02tengaku.jpg

 ふつうよく見られる記念碑には、文面の上部に
タイトルともいうべき額が置かれています。
 額の文字は、篆書で書かれることが多く、故に“篆額”と呼ばれます。
で、この篆額は、「従軍紀念之碑」と篆書で記されています。
右から二文字して改行するという縦書きなので、
注意するとそう読み取ることができますね。
この篆書の文字が、大山巌によるものなのです。

070529hibun03boutou.jpg

 篆額の下の碑文の冒頭の部分です。
「明治二十七年」という書き出しであり、日清戦争への当地「岡村」から
従軍した7人の若者について顕彰することが内容となっています。
岡村(碑文では、“岡邑”)は、江戸時代から昭和16年まで続いた村の名前で、
現在では、笛吹市八代町の大字となっています。

070531hibun04bunmen.jpg

 さて、撮影データをもとに、読み取りを行い、
あらたに書き起こしてみました。一字二字間違いがあるかもしれませんが、
およそ先に主旨を述べたとおりです。
 7人の従軍者の氏名の部分を青字で、また篆額を記した陸軍大将(当時)の
大山巌の名は、赤字で示しています。

 最後に、どうして急に大山巌を気にしたのでしょうか。
それは、この再訪の数日前に読んだ、岩波書店の月刊広報誌『図書』の
2006年7月号にその名を目にとめたからです。
 評論家・鶴見俊輔氏の「使わなかった言葉」という連載エッセイの
「『もし』が禁じられるとき」という記事がそれなのですが、
日清戦争の後の、日露戦争の戦端がきられようとする情勢の中で、
もしロシアに対して負けることがあったら国民をどれほど不運に陥れるか
こうしたことから、ある程度のところまで戦争をすすめ、
このあたりというところで、講和に移行する・・・という
後に派遣軍参謀長となる児玉源太郎の考えをもって、
「もし」という条件的思考がとまってしまうこと
そんな状況に対して警鐘とされた内容でした。
 その中で、大山巌は、児玉源太郎の考えを支持した
陸軍総司令官としてその名が登場していたのでした。

 憲法記念日があった5月は、いってしまい、6月とはなりましたが、
改憲へのムード作りは、いまも一定の流れとなっている中、
いろいろな歴史を検証して、じっくり考えていきたいな、
そんな想いで、碑文を一文字ひと文字読んでみた次第です。
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ある記念碑について [忠魂碑の類]

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 先日(5/29)、笛吹市八代町岡の八幡神社を再訪しました。

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 再訪して、とくに気にしたのが、この記念碑についてでした。
前回の訪問の時、この石碑については、存在を知るという程度でした。
ただ、碑文の中に、「大山巌」の名前があったことだけは、頭の中に残っていて
それが急に、気になったからです。

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 ふつうよく見られる記念碑には、文面の上部に
タイトルともいうべき額が置かれています。
 額の文字は、篆書で書かれることが多く、故に“篆額”と呼ばれます。
で、この篆額は、「従軍紀念之碑」と篆書で記されています。
右から二文字して改行するという縦書きなので、
注意するとそう読み取ることができますね。
この篆書の文字が、大山巌によるものなのです。

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 篆額の下の碑文の冒頭の部分です。
「明治二十七年」という書き出しであり、日清戦争への当地「岡村」から
従軍した7人の若者について顕彰することが内容となっています。
岡村(碑文では、“岡邑”)は、江戸時代から昭和16年まで続いた村の名前で、
現在では、笛吹市八代町の大字となっています。

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 さて、撮影データをもとに、読み取りを行い、
あらたに書き起こしてみました。一字二字間違いがあるかもしれませんが、
およそ先に主旨を述べたとおりです。
 7人の従軍者の氏名の部分を青字で、また篆額を記した陸軍大将(当時)の
大山巌の名は、赤字で示しています。

 最後に、どうして急に大山巌を気にしたのでしょうか。
それは、この再訪の数日前に読んだ、岩波書店の月刊広報誌『図書』の
2006年7月号にその名を目にとめたからです。
 評論家・鶴見俊輔氏の「使わなかった言葉」という連載エッセイの
「『もし』が禁じられるとき」という記事がそれなのですが、
日清戦争の後の、日露戦争の戦端がきられようとする情勢の中で、
もしロシアに対して負けることがあったら国民をどれほど不運に陥れるか
こうしたことから、ある程度のところまで戦争をすすめ、
このあたりというところで、講和に移行する・・・という
後に派遣軍参謀長となる児玉源太郎の考えをもって、
「もし」という条件的思考がとまってしまうこと
そんな状況に対して警鐘とされた内容でした。
 その中で、大山巌は、児玉源太郎の考えを支持した
陸軍総司令官としてその名が登場していたのでした。

 憲法記念日があった5月は、いってしまい、6月とはなりましたが、
改憲へのムード作りは、いまも一定の流れとなっている中、
いろいろな歴史を検証して、じっくり考えていきたいな、
そんな想いで、碑文を一文字ひと文字読んでみた次第です。
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