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寺と寺跡と・・・ [寺院めぐり]

070611jitokuin01.jpg

 先の月曜日に、甲斐市島上条の慈徳院という寺院で、
親戚の野辺送りがありました。
「1回でお願いします」とかいわれることなく、
比較的ゆったりと3回の焼香をし、静かに手を合わせてきました。

 お寺さんの場所は、奥まっていて、駐車スペースも限られている
との事前情報により、少し離れた場所に車を止めて、歩いてお寺にお参りしたので、
帰りも同じ道をてくてく、きょろきょろと歩きました。

070611teraato01.jpg

 往きながらに目を留めた場所について、帰り道には、カメラを握りしめて、
もう取材活動に入っていました。

 その一つがこの2つめの写真です。住宅地の一角に、古い石塔や
お地蔵さまなどがまとまってみられました。
その一群の石造物の中に「三界萬霊」の文字が見られる、
一際大きな石碑がありました。
なぁーんだ、お寺の跡じゃん、と、心の中で、つぶやきました。

070611teraato02.jpg

 しばらく進むと、今度はこんなのが目にとまりました。
またしても、「萬霊塔」の文字が記された石碑が真ん中に建っていました。
おおっ、こっちも寺跡かぁ・・・、と、心の中で・・・。

070613jitokuin02map.jpg

 さて、話題の中心の慈徳院さんと、帰り道にチェックした寺跡の
位置関係を見てみると、上のような感じだということになりました。
半径200mほどの範囲の中に、1つの現役のお寺と、
2つの引退したお寺さんとが、まとまっていたことがわかりました。
どうしてこうも、まとまっていたのでしょうか。
また残りの2つは、どんな経過をたどり、現在のようになったのでしょうか。

 たんに昔のお寺のことなんて、ということで、片付かないのですよ。
なぜなら、わが国の昔の地域社会においては、
お寺は、簡単に宗教施設と割り切れないものがあるからです。
それぞれのお寺は、地域文化を支える文化施設といってもいい存在だからです。

 現在、某機関で、昔(とくに中世)の寺院の跡を正確にトレースする作業を
全県的に進めておられます。
 今回のここでの話題は、たぶん近世から近代にかけてが内容かと思われ、
あまりかぶるものではありませんが、某機関の調査へのエールの意味で
まとめてみました。某機関のご担当の皆さん、頑張ってください。

《注》初めに書いている途中で、おねむの神さまが邪魔しにこられたので、
  若干の中断時間を挟みましたが、14日の21:25に完結しました。
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寺と寺跡と・・・ [寺院めぐり]

070611jitokuin01.jpg

 先の月曜日に、甲斐市島上条の慈徳院という寺院で、
親戚の野辺送りがありました。
「1回でお願いします」とかいわれることなく、
比較的ゆったりと3回の焼香をし、静かに手を合わせてきました。

 お寺さんの場所は、奥まっていて、駐車スペースも限られている
との事前情報により、少し離れた場所に車を止めて、歩いてお寺にお参りしたので、
帰りも同じ道をてくてく、きょろきょろと歩きました。

070611teraato01.jpg

 往きながらに目を留めた場所について、帰り道には、カメラを握りしめて、
もう取材活動に入っていました。

 その一つがこの2つめの写真です。住宅地の一角に、古い石塔や
お地蔵さまなどがまとまってみられました。
その一群の石造物の中に「三界萬霊」の文字が見られる、
一際大きな石碑がありました。
なぁーんだ、お寺の跡じゃん、と、心の中で、つぶやきました。

070611teraato02.jpg

 しばらく進むと、今度はこんなのが目にとまりました。
またしても、「萬霊塔」の文字が記された石碑が真ん中に建っていました。
おおっ、こっちも寺跡かぁ・・・、と、心の中で・・・。

070613jitokuin02map.jpg

 さて、話題の中心の慈徳院さんと、帰り道にチェックした寺跡の
位置関係を見てみると、上のような感じだということになりました。
半径200mほどの範囲の中に、1つの現役のお寺と、
2つの引退したお寺さんとが、まとまっていたことがわかりました。
どうしてこうも、まとまっていたのでしょうか。
また残りの2つは、どんな経過をたどり、現在のようになったのでしょうか。

 たんに昔のお寺のことなんて、ということで、片付かないのですよ。
なぜなら、わが国の昔の地域社会においては、
お寺は、簡単に宗教施設と割り切れないものがあるからです。
それぞれのお寺は、地域文化を支える文化施設といってもいい存在だからです。

 現在、某機関で、昔(とくに中世)の寺院の跡を正確にトレースする作業を
全県的に進めておられます。
 今回のここでの話題は、たぶん近世から近代にかけてが内容かと思われ、
あまりかぶるものではありませんが、某機関の調査へのエールの意味で
まとめてみました。某機関のご担当の皆さん、頑張ってください。

《注》初めに書いている途中で、おねむの神さまが邪魔しにこられたので、
  若干の中断時間を挟みましたが、14日の21:25に完結しました。
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待機中の“ぶる・さん” [鉄道・電気機関車]

070611burusan01.jpg

 昨日ですねぇ、あっちゃいましたよ、“ぶる・さん”さまに・・・
駅の構内で、待機中でしたよ。

 こうしたネタは、大広間で語るのは、はばかられるので
もう少し読んでみたい人は・・・

続きを読む


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待機中の“ぶる・さん” [鉄道・電気機関車]

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 昨日ですねぇ、あっちゃいましたよ、“ぶる・さん”さまに・・・
駅の構内で、待機中でしたよ。

 こうしたネタは、大広間で語るのは、はばかられるので
もう少し読んでみたい人は・・・

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夏近し・・・ [エートマンの日記]

070611keyakidoori01.jpg

 甲府市南東部郊外のケヤキ通りです。
今日は、先週の月曜に注文しておいた眼鏡ができあがる日でしたので、
それをもらいに出かけました。
もちろん、このケヤキ通りを通ってです。

070611keyakidoori02.jpg

 で、帰りにちょっとだけ、ケヤキ通りの傍らに車を止めて、
周辺スケッチをしました。
田植えが終わったばかりの水田の水面に、街路樹としてのケヤキや
通りを横切る送電線が映っていて、とてもさわやかに思えました。

070611himawari01.jpg

 それで、ヒマワリが早くもこんなに咲いているのが
目に飛び込んできました。

070611himawari02.jpg

 これから本格的な梅雨を迎えますが、梅雨は夏を迎える準備のための時期、
何か夏が近いのだなあ、と思われました。
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夏近し・・・ [エートマンの日記]

070611keyakidoori01.jpg

 甲府市南東部郊外のケヤキ通りです。
今日は、先週の月曜に注文しておいた眼鏡ができあがる日でしたので、
それをもらいに出かけました。
もちろん、このケヤキ通りを通ってです。

070611keyakidoori02.jpg

 で、帰りにちょっとだけ、ケヤキ通りの傍らに車を止めて、
周辺スケッチをしました。
田植えが終わったばかりの水田の水面に、街路樹としてのケヤキや
通りを横切る送電線が映っていて、とてもさわやかに思えました。

070611himawari01.jpg

 それで、ヒマワリが早くもこんなに咲いているのが
目に飛び込んできました。

070611himawari02.jpg

 これから本格的な梅雨を迎えますが、梅雨は夏を迎える準備のための時期、
何か夏が近いのだなあ、と思われました。
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雨あがる・・・ [エートマンの日記]

070610kamatagawa.jpg

 ♪雨がふってる日曜日・・・

 のんびりと久々の日曜日が過ぎていきました。
雨は、午前には、ゴロゴロと、カミナリ様もお供にしていましたが、
午後には止んで、午後3時過ぎには、少しですが、晴れ間も見えてきました。

 写真は、その頃に買い物に出かけた途中、車を止めて散策した
昭和町西条地内の鎌田川です。
 何か、外国の絵のような雰囲気が感じられませんか。
雨上がりの鎌田川は、いつもより流量が多く、かなり濁っていました。
日曜の楽しみとして、釣り糸をたれる中学生や大人の人の姿も見られました。
のどかで、平和だと思いました。
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雨あがる・・・ [エートマンの日記]

070610kamatagawa.jpg

 ♪雨がふってる日曜日・・・

 のんびりと久々の日曜日が過ぎていきました。
雨は、午前には、ゴロゴロと、カミナリ様もお供にしていましたが、
午後には止んで、午後3時過ぎには、少しですが、晴れ間も見えてきました。

 写真は、その頃に買い物に出かけた途中、車を止めて散策した
昭和町西条地内の鎌田川です。
 何か、外国の絵のような雰囲気が感じられませんか。
雨上がりの鎌田川は、いつもより流量が多く、かなり濁っていました。
日曜の楽しみとして、釣り糸をたれる中学生や大人の人の姿も見られました。
のどかで、平和だと思いました。
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ある古墳のこと2 [忘れないように]

070609map.jpg

 石塚古墳の続きです。
この古墳は、本格的な発掘調査は当時の状況として困難とされたようで、
数日間の簡易な状況把握がされ、そのレポートは、
1972年に刊行された『蝙蝠塚第一号墳の発掘』という文献に所収されているほか、
1975年発刊の『八代町誌』(上)のp.415~420に再録されています。

 といっても、正確な位置は特定しがたく、浅川から100mほど北の
浅川中学校校庭の造成敷地内だという程度なので、
そうした状況をメモ的にまとめると上のような古墳であったと思われます。
図示した円の大きさは、直径おそよ20mあまりですが、
これは報文中に、「南北13m」とあり、「周濠は考えられない」として
古墳の大きさを限定されていますが、墳丘の周囲に付属的な空間は
やはりあると思われるので、少なくとも直径20あまりの
こうした大きさと見るべきと思われます。

070609plan.jpg

 次に、石塚古墳は、横穴式石室が、予想以上によく残っていたということが指摘できます。
発見時の厳しい状況もあって、石室の入口部分が壊されてしまっているようですが、
残りの部分だけでも、奥行き10mはあったといいます。

 わずか1~2日ほどの石室調査であったようで、当然、完璧な記録図面の作成は
著しく困難であったとみられ、石室床面の記録には、「省略」とされた部分もありました。
石室基礎石の配置情報も残されていないので、推定で青い破線で加筆しました。
これにより、おそらく無袖式の横穴式石室のイメージがつかめるかと思います。

 残っていた石室内には、少なくとも2つの床面が、
約10cmの間層をおいて形成されていたようです。
上の面には、頭骨4を含む遺体が確認され、下の面にも人骨が多く見られたと報告されていて、
繰り返し埋葬があったことが考えられています。

070609objects.jpg

 この石塚古墳から出土した遺物ですが、土器や須恵器、
鉄製の直刀などが記録されています。
 このうち、薄い赤色でカバーした土器群は、平安時代の土器です。
石室内の上の層だけでなく、下の層からも見つかっているとされています。
 また薄いオレンジ色でカバーしたのが6世紀の終わりないし7世紀の
いわゆる古墳時代の土器です。

 こうした状況から、石塚古墳は、古墳時代後期の6世紀の終わり頃に
地域の勢力者の墓として営まれ、その人に関係した人の「追葬」も行われたようですが、
ずっと時代が下って平安時代になっても、埋葬行為などがあったという
地域の歴史を伝えるものだといえます。
 さらに、詳細なことをいうためには情報が不足していますが、
一度失われてしまった地中の文化財は、もうそれ以上の役割を期待してもダメなのですね。
 もっと地中の文化財を大切にしたい・・・
また、そうしたものから得られた情報を有効に利用できるようにしたい・・・
そんな想いを新たにしながら、平和な現在の光景の後ろに隠れた
はるかな歴史を考えてみました。

(この記事は、『八代町誌』1975 によっています)
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ある古墳のこと2 [忘れないように]

070609map.jpg

 石塚古墳の続きです。
この古墳は、本格的な発掘調査は当時の状況として困難とされたようで、
数日間の簡易な状況把握がされ、そのレポートは、
1972年に刊行された『蝙蝠塚第一号墳の発掘』という文献に所収されているほか、
1975年発刊の『八代町誌』(上)のp.415~420に再録されています。

 といっても、正確な位置は特定しがたく、浅川から100mほど北の
浅川中学校校庭の造成敷地内だという程度なので、
そうした状況をメモ的にまとめると上のような古墳であったと思われます。
図示した円の大きさは、直径おそよ20mあまりですが、
これは報文中に、「南北13m」とあり、「周濠は考えられない」として
古墳の大きさを限定されていますが、墳丘の周囲に付属的な空間は
やはりあると思われるので、少なくとも直径20あまりの
こうした大きさと見るべきと思われます。

070609plan.jpg

 次に、石塚古墳は、横穴式石室が、予想以上によく残っていたということが指摘できます。
発見時の厳しい状況もあって、石室の入口部分が壊されてしまっているようですが、
残りの部分だけでも、奥行き10mはあったといいます。

 わずか1~2日ほどの石室調査であったようで、当然、完璧な記録図面の作成は
著しく困難であったとみられ、石室床面の記録には、「省略」とされた部分もありました。
石室基礎石の配置情報も残されていないので、推定で青い破線で加筆しました。
これにより、おそらく無袖式の横穴式石室のイメージがつかめるかと思います。

 残っていた石室内には、少なくとも2つの床面が、
約10cmの間層をおいて形成されていたようです。
上の面には、頭骨4を含む遺体が確認され、下の面にも人骨が多く見られたと報告されていて、
繰り返し埋葬があったことが考えられています。

070609objects.jpg

 この石塚古墳から出土した遺物ですが、土器や須恵器、
鉄製の直刀などが記録されています。
 このうち、薄い赤色でカバーした土器群は、平安時代の土器です。
石室内の上の層だけでなく、下の層からも見つかっているとされています。
 また薄いオレンジ色でカバーしたのが6世紀の終わりないし7世紀の
いわゆる古墳時代の土器です。

 こうした状況から、石塚古墳は、古墳時代後期の6世紀の終わり頃に
地域の勢力者の墓として営まれ、その人に関係した人の「追葬」も行われたようですが、
ずっと時代が下って平安時代になっても、埋葬行為などがあったという
地域の歴史を伝えるものだといえます。
 さらに、詳細なことをいうためには情報が不足していますが、
一度失われてしまった地中の文化財は、もうそれ以上の役割を期待してもダメなのですね。
 もっと地中の文化財を大切にしたい・・・
また、そうしたものから得られた情報を有効に利用できるようにしたい・・・
そんな想いを新たにしながら、平和な現在の光景の後ろに隠れた
はるかな歴史を考えてみました。

(この記事は、『八代町誌』1975 によっています)
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