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まごべえ・・・ [エートマン・モードの人物館]

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 またまた西高橋町にての話題です。
 付近を散策中、こんな場所に出くわしました。

写真手前の小さな公園のような一角のことです。
右端に寄ったところから、文字がうすくてほとんど読み取りにくい顕彰碑、
それから小さな祠、六地蔵石碑が2つと、
その向こうに火袋を失った六地蔵石幢などが置かれ、
加えて説明板が設置されていました。 

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 説明板の内容をそのままに読んでみましょう。


    桜井孫兵衛政能の濁川改修について(顕彰碑)  江戸時代中期頃までの濁川は蓬沢村の東を流れ、西高橋村の南で笛吹川に合流することから、少しの増水でも濁川の通水が悪くなり、川沿い九ヵ村は濁川の氾濫による水害が絶えなかった。中でも蓬沢と西高橋の両村は田畑の過半数が、沼地に変わるほどの惨状で苦しんでいた。  1694年、代官として来甲した桜井孫兵衛政能は、その窮状を知り濁川の改修を決意、土木工事に才たけた山口官兵衛(素堂)の協力を得て、1696年、工事を行ないそれによって長年の水害から解放され、多くの土地が耕地としてよみがえった。  被害の著しかった蓬沢・西高橋両村では、桜井孫兵衛政能の治水成功に対する感謝と、今後の水防の安全を祈って、この地に祠を建て今日まで地域住民に敬愛されてきました。  このたび埋立処分地整備事業に伴い、石碑をここに移転したものであります。                      2003年3月吉日

 とのことで、近年、付近から移転、整備された
水害の歴史にかかる石造物の保存のための
小公園だとわかりました。

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 こちらは、西高橋町付近を流れる濁川(にごりがわ)です。
左岸の堤防上から、上流方向を見たもので、
中景の堤防の向こうに見える空色がかった屋根の建物は、
大雨などの出水の際、西高橋町側からの水を排水するポンプ場です。

 先ほどの、説明板のことをもう少し確認したくて
『角川地名大辞典19 山梨県』の「濁川」の項を引いてみました。
状況がもっとよく理解できるものなので、関係の記述を引用します。


 貞享~元禄年間の頃、笛吹川の河床が高まり、当河川との合流点がふさがり、雨季になると逆流氾濫して沿岸9村、数十町歩に余る田畑が湖沼と化したという。徳川綱豊領国時代の代官桜井孫兵衛政能は治水の工を計画し、元禄9年3月工を起こし、山口官兵衛信章の協力を得て、西高橋から南方笛吹川の堤防に沿って、増坪・上村・西油川・落合・小曲・西下条の村境に至るまで新たに渠道を通じ、土堤2,150間余を築き、当河川を導き、停水を排して田畑をことごとく旧に復した。住民はその徳をたたえ、蓬沢の庄塚に桜井明神・山口霊神の生祠をたてて祀った。


 この記述中の、「笛吹川」とは、現在の平等川を指し、
また「当河川」とは、濁川のことを意味しています。

 桜井孫兵衛のことは、この地を訪ねるまでは、ほとんど知りませんでした。
山口官兵衛の方は、官兵衛というより、山口素堂の名でよく知られています。

 あらためてウィキペデアで確認すると、次のような人となりがあらためてわかりました。

山口素堂(やまぐち そどう)は、江戸時代前期の俳人・治水家。
本名は信章。通称勘兵衛。
生没は、寛永19年(1642年) - 享保元年8月15日(1716年9月30日)
生れは甲斐国で、家業は甲府魚町の酒造家。
20歳頃で家業の酒造業を弟に譲り、江戸に出て漢学を学び、
さらに俳諧の道に進む。
また治水にも手腕を発揮した。 

 たいへん、長いお話となりましたが、
「まごべえ・・・」というタイトルの割には、
桜井孫兵衛のことはさておき・・・という感じになりました。
また機会があれば、彼のことも、もっと深く知ることが出来るでしょう。

 さても、じっくり歩いてみることで、付近の歴史がずっと心にしみこんできました。
ほんとに、時間をかけて歩いてみると、いろいろなものが見つかります・・・ね!
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