火の見ちゃん60 [火の見櫓]
山梨市東の岩手小学校の脇で見た火の見櫓です。これで火の見ちゃんは還暦。
いや年ではないので還暦とはいわない、60回目の火の見ちゃんとなりました。
手前の建物は消防団詰め所で、シャッター上の庇部分には、
「山梨市消防団岩手分団機動部」とありました。かっこいい名称です。
この火の見櫓には、建設の趣旨や年代などが記されていると考えられる
鉄板プレートが確認されました。
しかしながら、たがねの彫が浅いうえ、丁寧なペイントもあって、
文字はまったくといっていいほど判読できませんでした。
(拓本とればわかるかも・・・)
回り込んで南側から見ました。
赤い文字で「火の用心」の文字が強烈です。
夜、暗くなると光の文字になる気配がありました。
平面形が四角い望楼で、屋根も四角。
その屋根の下に設置されているのは、半鐘ではなく、機械式のサイレン。
もはや、スイッチ・オンの機動的な火の見櫓だと感じられました。
《補記:2024.4.14》画像リンクの再設定を行いました。
川崎順道さんって、どんなお方? [エートマン・モードの人物館]
前回の「蚕影山」の文字を残した川崎順道さん、気になってネット検索したのですが、
よくはわかりません。
が、二つの系統の情報に接することができました。
1つは、明治になったばかりのころ、新撰組隊士録に名が見えるというもの。
甲陽鎮撫隊の局長付で、彼の近藤勇の護衛を担当していたらしい・・・という情報です。
もう1つは、明治22年に編まれた『山梨県人物誌』の初編に、「川崎順道君傳」というのが
確認され、それによると「八幡村に住す刀圭の術を以て鳴る」お方だったというものです。
《補記:2024.4.14》画像リンクの再設定を行いました。
道祖神さんかな。そして・・・ [いのり・信仰]
写真の左上の背後に、「火の見ちゃん59」でとりあげた火の見やぐらの一部が見えてます。
つまり前回見た火の見やぐらのすぐ近くのことです。
道祖神場のように見受けられました。
石の祠に道祖神さんが祀られているのかと思われたのでした。
それにしても、石の祠は、激しく削られた痕がいっぱいです。
削って飲むと何かに効いたというようなことがあったのかもしれません。
それから、そのまわりには、丸石がたくさん・・・。「ぼこ」でしょうか。
道祖神場の一角に「こかげさん」も祀られていました。
大きな自然石の表面に「蚕影山」と。落ち着いた印象の立派な文字です。
書家の名前が記してありました。「川崎順道」さんだと読み取れました。
《補記:2024.4.14》画像リンクの再設定を行いました。
火の見ちゃん59 [火の見櫓]
前回の話題の窪八幡神社(大井俣神社)の鳥居について、少し角度を変えて見たら、
お隣に火の見やぐらが建っているのでありました。
平面が円形の望楼が上下2段に設置された、とても背の高い火の見やぐらでありました。
神社の鳥居との間にある建物は、消防機材庫かと思われましたが、OO消防団とかいうような
何の表示もありませんでした。
この火の見やぐらには、消防ホースを干す機能が充実していました。
そういえば、昨日の日曜、各地で消防団の出初式が行われたようでありました。
寒い中、ご苦労さまでございます。お疲れ様でした。
《補記:2024.4.14》画像リンクの再設定を行いました。
初詣は窪八幡さん・4・・・鳥居 [神社まいり]
窪八幡さんの初詣の最後に、境外参道に建つ、重要文化財の鳥居を見ました。
中央に掲げられている神号額です。「大井俣神社」と風格のある額になっています。
南側の鳥居の足元を見ました。
この鳥居は、県道(甲府山梨線)に建つもので、車の往来も頻繁ですが、
車止めが景観を阻害しないように設置され、鳥居がまもられていました。
鳥居の北側の足元脇に設置されていた説明版です。
鳥居の額は「大井俣神社」ですが、重要文化財としての名称は「窪八幡神社鳥居」のようです。
その辺が、この神社の歴史の深さかな、と感じました。
初詣は窪八幡さん・3・・・神社に鐘楼が [神社まいり]
2日に初詣としてお参りした窪八幡神社には、不思議なことに鐘楼がありました。
除夜の鐘でも撞かれたのでしょうか、綱が垂れ下がっていました。
ご本殿の裏手のいくつもの摂社を順にお参りしている時などに、鐘の音が聞こえましたので、
初詣の参拝者にも鐘撞き可だったかもしれません。
結局は、撞きたかったけど撞きませんでしたが。
ところで昨年11月4日の保存修理現場公開日にもこの鐘楼は気になっていました。
お寺ならともかく、なぜ神社に鐘楼があるのかなぁ、と。
その時は、鐘撞き用の綱は、さすがに下がっていませんでした。
いつでも撞けるというわけではないようです。
こちらは拝殿の内側にかけられていた幕で、その全体像は前回記事の
2カット目の写真にあるものでありまして、そのうちの左右の名分の部分を合わせたものです。
これによりますと、昭和56年11月にこの鐘楼が「復元修理」されたということが知られるのですが、
「文化財鐘楼」というのは、昭和54年12月に県指定有形文化財(建造物)となっていることから
県指定の直後に保存修理が行われたのかな、とみられます。
初詣は窪八幡さん・2・・・保存修理の記憶 [神社まいり]
初詣ですから、拝殿の前に進んで、二礼二拍手一拝となりますが、
これも重要文化財の拝殿をパチリ。
お正月としての紅白幔幕や初詣客対応用のテントなど、いつもと違った光景が見られました。
お参りを済ませた後、ご本殿前のようすをまたパチリ。
いくつも並べられた折敷の上には、海の幸・山の幸が供えられていました。
もっとも、後でお札授与所で、氏子の方に伺ったところでは、
昨日(元日)、重要文化財のご本殿ほかの保存修理竣工式典が挙行されたとのことで、
拝殿前のテントなども含め、その名残でもあったことがわかりました。
そういえば拝殿前の花菱紋のある幕の隅に、「平成二十四年・・・屋根葺替記念」と
あったことが思い出されました。
長屋のように左右に長い拝殿を左方向にまわって、これまた長屋のように長いご本殿を拝見。
十一間社流造(じゅういっけんしゃ・ながれづくり)という、たいへんめずらしい構造、
これは等間隔に並ぶ6つの流造の本殿を、間をすべて同じようにつなぎ、一体構造にしたものと
うかがったことがありますが、たくさんの神様をいちどのお祀りするという神業なのだと
感じられました。
そのありがたいご本殿が、桧皮葺の屋根の吹き替えに加え、木部や壁の塗り替え、飾り金具の修理など、たくさんの手間を経て、たいへん美しくなられたのを間近で見て
初詣プラスの感慨がありました。
反対方向の若宮さんと拝殿をいっしょにパチリです。
昨年(2012年)11月4日に、保存修理現場の特別公開があり、参加した時撮影したものですが、
その時は、ご本殿にすっぽりと覆い屋がかけられ、その中でていねいな修復作業が行われ、
特別にその状況を間近で拝見することができたのでした。
こちらが軒先高に組まれた足場の上で、桧皮葺のほぼ完成した状況をほんとに間近で
見学させていただいたときの模様です。
こうした貴重な文化遺産が手をかけて後世に伝えられていくのは意義があるものと思われますが、
多くの人に理解され、支持されていかないと、はかなくも「断絶」してしまう虞があります。
たくさんの人に見守られて、末永く伝わっていきますように・・・。南無八幡大菩薩。
初詣は窪八幡さん [神社まいり]
昨日、初詣に出かけたのは、山梨市にある窪八幡神社です。
別に大井俣神社ともいわれ、また大井俣窪八幡神社とも称されるようです。
参道正面に建つのは、重要文化財に指定されている神門です。
神門の左右にそれぞれ人物が描かれた提灯がつりさげられていました。
お正月ならではの光景かと思われました。
こちらは向かって右側で「武内宿祢」さんです。
そして向かって左手で「神功皇后」さまです。
神功皇后も武内宿祢も、八幡さんとは深いつながりのある人々(神々が正しいかな)です。
それから武内宿祢さんの提灯の背後には、「謹賀新年」の書が、
また神功皇后さまの背後には、「東日本復興祈願」の書が掲げられていました。
元日の米倉山で2013・・・その6;国内一峰・二峰、etc. [甲斐の山々]
米倉山の山頂部からは、ほんの少しだけ富士山(3776m)が見えます。
ほんのちょっとでも、富士山は富士山。
今年はめでたく、世界遺産イヤーとなるか、初夏にはそれが明らかになるそうです。
それからこちらは北岳(3193m)。国内第二峰は、山頂部に雲がかかってしまいました。
北岳から南の鞍部に下がると、そこには雪に閉ざされた北岳山荘の姿が確認できました。
元日の米倉山で2013・・・その5;チャノキ [田や畑でスケッチ]
チャノキは、中国南西部ないしベトナム~インドあたりを原産とする
ツバキ科ツバキ属の常緑低木です。
わたしたちは、その若い葉を利用し、お茶を楽しみます。
さて、米倉山では、注意してみると、あちこちにこのチャノキを見ることができます。
その存在の意義は、どこにあったのでしょうか。
まあ、特に米倉山に限らったことではないのですが、チャノキは畑の境目や
畑の段差の法面など、ローカルでは「くろ」と呼ばれるような場所に植えられています。
お茶の葉をスーパーなどで買ってきて、お湯を沸かしてお茶を飲む、
ないしは完全にお茶になったものがペットボトルなどの容器で買え、いつでも飲める・・・。
そんな時代が始まる前は、自給自足的なライフスタイルが基本で、お茶も自家製、
忙しい農作業の合間に、葉を摘み煎じて飲んでいた・・・。
そんな時代があったことをチャノキは黙して語りませんが、そうなんですね。
米倉山でチャノキを見て、持続可能な循環型社会のことを考えてしまいました。