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鳳凰三山によせて [忘れないように]

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 今日の午後、韮崎市岩下の、塩川右岸堤防上から見た
鳳凰三山です。
 鳳凰三山とは、一般に、観音岳、薬師岳、地蔵岳の三つの山の総称です。

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 一番東側に位置する薬師岳です。

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 そして、観音岳。

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 一番北西側にある地蔵岳です。

 さて、この鳳凰三山ですが、そういう名称で、
ここで初めにあげたような内容の山となったのは、
明治43年の陸軍陸地測量部の5万分の1地形図
「韮崎」の段階からのようで、それが定着し始めたのは
昭和10年頃だそうですが、その後も異説は残っているとか。
この問題については、『角川地名大辞典』19のp.723
をご参照ください。

 今回、鳳凰三山をとりあげて、想いを残そうとしたのは
山名論争のことではなく、この山がこのように見えるところで
あるお世話になった方の葬送があったことでありました。
 いつもこの山が見える町で、ずっと元気に過ごされていたと思っていたところ
急な訃報に接し、この日、お別れをしてきたのです。
 何とはない影響を受けました。
感謝とともに冥福を祈ります。
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ほうきゅうじ [寺院めぐり]

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 先日(1/22)、中央市高部にある法久寺を訪ねました。
曹洞宗の寺院で、山号を浅利山といいます。
 左右の灯籠は、宝永年間(1704-11)に、二親菩提のため寄進されたものです。
その先、左手に折れて、山門をくぐり、南面する本堂に進みます。

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 山門を過ぎて、本堂への参道の右手、山すそを一段上がったところに
この寺の開基とされる浅利与一義成の墓所があります。
 この地は、中世浅利郷にあたり、甲斐源氏の一人義成(「吾妻鑑」では義遠)が
この地に住して、浅利を姓とし、鎌倉幕府の成立に貢献したとされています。

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 義成の法名は「宝弓寺一箭存誉」とされていますが、
義成が弓の名人とされることから、<弓>の文字と<箭>が込められていて、
初めの<宝弓寺>は、現在の“法久寺”という寺号に音が通じています。
つまり法久寺は、浅利与一の菩提寺。
浅利山という、この寺の山号も、浅利氏の姓をとっているのです。

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 こちらは、法久寺の本堂です。
この寺は、浅利氏の影がこの地で薄なると、長く荒廃してしまったようです。
戦国時代になって、曹洞宗の寺として再興されましたが、
寛文5年(1665)に、諸堂と記録類などを焼失してしまったと記録され、
さらに享和2年(1802)に再び火災にかかり、
昭和55年(1980)に三度、焼失するという、
ちょっときびしい歴史をとどめていますが、関係者の多大なご苦労もあって
現在は写真でご紹介したように、古い由緒とともにりっぱなお寺として
落ち着いた構えを見せていました。
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