石川県戦死士尽忠碑 [忠魂碑の類]
先日の続きのようで恐縮ですが、例の日本最古の銅像「日本武尊像」をご記憶でしょうか。
その向かって左隣に、一段と興味深いものがありました。
それがこちらの「石川縣戰死士盡忠碑」であります。
これまで、このブログでは、戦前によくあった忠魂碑や戦後の忠霊碑などというものを
関心をもって取り上げてきましたが、尽忠碑というのは初めてです。
題額と碑文をじっくり見てみます。
題額はともかく、碑文は、かなり難しい・・・です。
建碑の趣旨は、日本武尊像といっしょで、西南戦争で亡くなった方々の慰霊のようであります。
その2行目「明治十年二月鹿児島賊軍起く」は、
その時代の空気を強烈に物語っているように思えます。
その11行目「相共に謀りて尽忠碑を尾山神社内に建つ」とあるのは、どういうことでしょうか。
初めこの尽忠碑は、ここより金沢城公園を挟んで西方の尾山神社の境内に祀られた、
というように読み取れるのです。
でも、ネットでチェックした限りでは、詳細不明です。
13行目に「明治十一年九月」とあります。
なので、確かではありませんが、日本武尊像が建立された明治13年に、合わせられたのかと。
碑文の左右には、りっぱな昇り龍の図像が刻されています。
こんなところにも年代を感じますね。
なお、碑文の末尾には「正三位前田齊泰撰併びに書」とあるのが見られます。
前田さんと言うからには、さては・・・。
やはりそうでした。加賀百万石の実質的に最後のお殿様であらせられた
前田家第12代斉泰(なりやす)さまのことで、明治17年、74歳で亡くなられていますので、
このとき御年68歳であらせられたか。
(補記 2022.4.17)この記事は、長らく画像データがリンク切れとなっておりました。
このほど、元データから作成し直してアップロードし、表示させました。
雪に輝くモモ畑から [田や畑でスケッチ]
モモ畑に出てみました。
一面に雪が残り、まぶしかった・・・。
モモの畑の向こうに見える小屋みたいなのは、小屋ではなく屋内体育館です。
ここは甲府市上向山町、で、あれは旧中道町民体育館なのでした。
そこで地域イベントがあったのですが、ちょっと課題があって外に出てみたのです。
目の前のモモの枝、ずいぶんと膨らんできているなぁ。びっくり。
隣の野菜畑越しに、南アルプスを見ました。
白く輝くお山が印象的でした。あのお山は・・・で、あちらのお山は・・・だな。
あのお山、荒川東岳(悪沢岳)、3141mです。静岡県静岡市葵区です。
あちらのお山、赤石岳、3120mです。静岡県静岡市葵区と
長野県下伊那郡大鹿村にまたがります。
ブッコで『古事記』ゲット [エートマンの日記]
はじめに、「ブッコ」とは何か。エートマン家でのみ通用する造語です。
その意味については、2005年12月13日の記事「ブッコ」をご覧ください。
携帯会員の登録をしたりするほど、入れあげています。
昨日も今日も通いました。でも原則として200円くらいを上限として
掘り出し物しか買わないことにしています。
でも、今日は衝動買いをしてしまいました。タイトルにある『古事記』ですが、
笠間書院刊行の鈴木知太郎監修・武谷久雄著になるもので、1967年初版の2005年の25刷でした。
新刊では1,600円(税別)というもので、それに値段シールが850円とありました。
今回利用したブッコのOO店(店名忘れた・・・いっぱいあって覚えきれない)では、
今日明日の日程で半額セールをしていたので、ふにゃふにゃと心が動いたのです。
でも、何で『古事記』?
それは、あらためて日本武尊のことをお勉強してみたくなったからです。
もっとも『古事記』では、倭建命ですが。
実は、岩波文庫本の『古事記』があるにはあるのですが、すぐに出てこない
この記事に関連する日本武尊・倭建命・ヤマトタケルにふれた記事リスト
2008年05月08日「まだまだ桜が・・・金桜神社」・・・日本武尊
2010年01月03日「初めてのお参り・・・酒折宮」・・・日本武尊(倭建命)
2011年02月11日「兼六園で『日本武尊』に釘付け」・・・日本武尊
2010年12月16日「美しき誤解・・・酒折宮編」・・・ヤマトタケル
(補記 2022.4.17)リンク切れ修正しました。
雪の日の夕景の中に・・・ [さんせっとorとわいらいと]
雪の一日になりましたが、午後の遅い時間には、いったん止みました。
そして、西の空を覆っていた雪雲に、薄い破れが現れて、夕焼けが少しだけ見られました。
右手が笛吹川(富士川支流)の右岸堤防ですが、その脇の水田のイネの切り株が
行儀よく並ぶ様におもしろさを感じ、合わせての写真としました。
雪の斜面に足を取られながら、堤防の上に登り、小さな夕焼けの見られる光景を
あらためて撮影したものです。
堤防の先、右手に見える橋は、国道358号の下曽根橋です。
振り返って上流側を見ました。
赤く見える橋梁は、中央自動車道が笛吹川を渡ろうとするところです。
そして甲府盆地中心方向とその向こうの甲府北部の山々。
真ん中辺りに茅ヶ岳が姿を見せていました。
また180度振り返ると、そこには曽根丘陵と背後に御坂山地が、雪色をして展開していました。
前の写真の中ほどをクローズアップすると、とある前方後円墳が現れてきました。
大丸山古墳です。
この古墳は、いろいろとたいへん難しい古墳なのであります。
普段は雑木林の中に潜んでいて、雪が降ると、こうしてその謎めいた姿を現してくれるのです。
今回の記事のメインテーマは、実はこの「大丸山古墳が現れましたぁ!!」
ということにあったのです。
兼六園で「日本武尊」に釘付けに・・・ [エートマンのお出かけメモ]
先日、急な所用で、金沢に行ってきたときのことです。
せっかくなので、兼六園を初見物しました。
雪のある兼六園、雪吊りなどに風情があり、なかなか優雅でありました。
でも、いちばん印象に残ったのは、これっ。
もうよくご存知の方もおられるかと思われますが、エートマンは初対面だったのでとにかく感激。
傍らに説明板がありました。
高札風のもので、メインの日本語の表記の他、英語・ハングル・簡体字・繁体字と
さすがに国際観光都市だなぁ・・・。(わが甲府では、どうだろぅ・・・。)
ともかく、このような場合において、その内容をよく理解するのに、たいてい
英語がスッキリしていてとてもよいですよ。なので、引きます。
Statue of Prince Yamato Takeru
This statue of Prince Yamato Takeru(Japanese Mythological hero) was
erected in 1880 to commemorate the Ishikawa warriors who died in
the Satsuma Rebellion of 1887.
ふ~ん、そうなんだ。
ということで、1880年に建てられたブロンズ製の日本武尊像が乗る石の台座、
後で調べたところ、それ自体にも意味があるようですが、そこに刻まれた銘文に注目です。
中心に「明治紀念之標」と書かれておりまして、その右側にこの書を認められてお方の御名、
すなわち「陸軍大将兼左大臣議定官 / 二品大勲位熾仁親王書」とございました。
うわっ、すごいお方がお出ましになられましたぁ。
熾仁親王さまのことは、とても畏れおおいので、ここでは深く掘り下げないようにし、
その先に進みましょう。
お終いに、もう一度、日本武尊の銅像に注目です。
銅像に関しても話題、盛りだくさんのようです。
まずは、通常の歴史観でいくと実在した特定の人物とは見なされないお方のお姿である点。
それは、英文の Japanese Mythological hero がよく語っているところです。
次に、銅像として、わが国最古の作品だとされていること。
よく知られている、東京九段の大村益次郎像(明治21=1888)や
上野の西郷隆盛像(明治30=1897)などよりずっと古いものであるのです。
それから、制作についてもちょっとした話題があるようです。
当初この像の鋳造は、地元の金沢の鋳物師が担当する運びだったそうですが、
江戸時代から全国的に有名になっていた、富山高岡の鋳物師が横取りをするように
その制作・鋳造に関わったのだそうで、そのため、作品自体に、
やれ頭が大きすぎバランスが悪いだの、やれ左手に持つ草薙の剣の形式が時代に合わないだの、
はては加賀百万石、前田のお殿様ののこされた立派なお庭、兼六園にそぐわないだのと、
揶揄されることも多かったとか。
いやぁー、建国記念の日の話題として、ちょっと濃かったですねぇ・・・。
なお、今回の記事を書くのに、次のサイトの記事内容を参考にさせていただきました。
熾仁親王について・・・ウィキペディアの「有栖川宮熾仁親王」の項
高岡鋳物師について・・・室屋長兵衛の「日本最古の銅像 日本武尊像」のページ
《2016年8月21日追記》
このほど、画像のリンクを修正し、画像の表示を確保しました。
また、参考情報としてあげた2つのサイトへのリンクのうち、後者、すなわち高岡鋳物師に関するものは、
元情報が削除されたためか、リンク切れとなってしまっています。あしからず・・・。
《補記:2024.4.23》
アイコンの表示など、さらに修正が必要な箇所が見られたので、対応しました。
雪降る「建国記念の日」 [季節の話題]
前回の記事につながるものがありますが、今日、2011年2月11日の
丸山塚古墳の北側の光景であります。
その光景の中の一部にずっと寄って見ました。
雪が強く降りしきっています。
ピンクの八重咲きのウメの花にも、白い雪が積もりました。
こちらは、白い「建国記念の日」の銚子塚古墳です。
三人の若者が、これから古墳に上がって、見学という場面のようです。
わが国の場合、どの時点が建国の日にあたるか、長い長い歴史の中で、
はっきりさせることが出来ないでいます。
アメリカ合衆国における独立記念日のようなものを欲しかった人びとが、
神武天皇が即位された日を以て建国記念日にしようと試みたようですが、
冷静な歴史研究の成果に立てば、神武天皇の存在やその年代など、
もう一つはっきりさせることはかなわない、という結論になっています。
それで、「の」を介在させ、きっとあったはずの遠い建国の日を忍ぶ、
そんなことで今に至っているようです。
昔むかし、まだ少しくちばしが黄色かった頃、こうした考えを口にしたときだったか、
「お前はアカか」といわれたことがあります。
「ピンクかもしれないけど、アカではないですねぇ」といってやりました。
とても非生産的な思い出です。
ちなみに、このわが県でいちばん大きく、一番古い前方後円墳、
4世紀の後半代に営まれたとされる壮大なお墓であります。
一方の神武天皇の時代とされるのはもっとずっと古いものということであり、
そのままの説明を現在の一般的な歴史観に当てはめれば、
縄文時代の終わり近くに相当します。
《2016年8月21日追記》
本日、画像のリンクを修正し、画像が正しく表示されるようにいたしました。
また文末の部分において、一部の字句を追加する補訂を行いました。
《補記:2024.4.23》
さらに修正が必要な箇所が見られましたので、対応しました。
八重の紅梅 [公園・史跡]
甲府市下曽根町の曽根丘陵公園、またの名を甲斐風土記の丘。
そこの史跡・丸山塚古墳の北側のウメをスケッチです。
丸山塚古墳の南側にも、梅林がありますが、八重咲きのウメに関しては、
南側のは少し早めに開き始めたため、一月後半の寒さのせいで、色が悪く、
こちらの北側の方は、カシの木に抱かれるように存在しているためと、
開花時期が少し遅くなっているため、色付きがよくなっています。
ほーら、こんなです。実物はもっときれいですよ。
この3連休、梅見はこちらで・・・・
というものの、どうやら本格的に白いものが降りそうですね。
たくさん積もるのでしょうか。
1点めの写真、もう少し引いてみました。そう南側の梅林の方からの景観です。
左半分に丸山塚古墳が墳丘の一部が見え、その上方の遠くには、八ヶ岳が見えている、
そんな場所です。
6.05と6.31の違い [月や宇宙・宇宙開発]
お昼休みに見たお月さま。月齢6.05。
日没後しばらくして見たお月さま。月齢6.31。
こうしてみると、めまぐるしく時が流れているなぁ・・・と思います。
二月はもう、三分の一終わってしまった。
実際、とても忙しくて、更新時間がとれないよぅ
遠き山に日が落ちて・・・ [さんせっとorとわいらいと]
今日の16時54分撮影です。
立春の日の翌日の太陽が山の彼方に没しようとしています。
夕日に照らされて見えているものは何でしょうか。
それについては、また、後刻ご報告いたします。